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花束

皆が地下に降りていってから、とても静かだ。梗香は眠っている時間が格段に増えた。京さんは多分、部屋に籠って物語を描いている。

私は大事な友達の肌に触れた。簡単に言うと、そういうことだ。それは想像よりもずっと素敵で、そして苦しいことだった。私には恋愛感情がなかった。でも、この人を深く愛したいと思った。静かに、つつがなく、私がキョウコという女のままで。

もちろんそんな簡単にはいかなかった。

私はまず、自分のことを理解しなくてはならないし、自分自身と折り合いをつけなくてはならない。でも私には自分の心の実態がわからない。ブラックホール。

そして私は、永い時間を梗香と京さんと一緒に過ごしてしまった。分かち難く、渾然一体となって。もし二人がいなくなってしまったら、キョウコという女には一体どんな望みが残るのだろう。

京さんが繰り返し、私に話すことがある。

キョウコ、感情は消える、誰かとの関係もいずれ終わる。それでも作品は永遠に残る。作品は宝だ。わたしにとっても、あなたにとっても。キョウコが感情の全てを差し出して描いた物語を、わたしが凍結する。七年前の時間も、十五年前の時間も、いつでも取り出して眺めることができる。それは枯れない花束を抱えて生きるようなものなんだよ。それとも、全てを川に流すように忘れてしまったほうがいい?

私はまっすぐ京さんの目を見て答える。でも私はね、当たり前すぎてシーンになりようもない日常を生きたいの。

万年筆を置いて眼鏡を外し、わたしは煙草に火をつけた。白い煙がまっすぐ天井へ立ち上っていく。当たり前の日常。キョウコの望みは変わらないな、と思う。それはずっと前から知っている。だから今回のキャストとは、そういうシーンを細かく撮るつもりでいた。

机の奥からガラスの灰皿を引き寄せて、煙草の灰を落とす。キョウコはわかっているのだろうか。彼女が本当に欲しいのは、その男自体ではなく、キャストとのありふれた日常を切り取った無数のシーンなのだ。買い物袋を持って川沿いを歩く夕暮れ、近所の中華料理店での何気ない食事。いくつもの寝顔、朝起きてすぐ淹れるコーヒー、その湯気、たちこめる匂い、東の窓から射す光。

キョウコは時間を一本の線で捉えることができない。彼女にとっての人生はシーンの集積だ。その時間が澄んでいても澱んでいても、絶対的に美しければいい。その果てのない欲望が、わたしと梗香を生んだのだ。

いつかわたしたちは、別れるのだろうか。

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