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自分の言葉はとける、きえる。


すっかり更新できなくなっていたのだけど、今日最近気になっていたを本屋で見つけ読んでみたら久々に綴りたい気持ちがでてきたので少し書いてみようと思う。

今週は三連休だ。
社会人の一人暮らしの休日は思いの外ポツンとしている。でも頭の中だけはぐるぐるしちゃうので休みが無条件に嬉しいかと言うと、今の自分にはそんなこともなく。
むしろ毎週土日が来るたびにどうやって過ごそうと気が張って、そのわりには平日の緊張がとけてどっと疲れはやってくるから体調を崩しがち。

だけれども、少しずつ仕事が忙しくなってきたので土日は2日だと絶妙に休み切らない感覚が出始めてきた。そんな中の3連休。
あと1日あるということがこんなにもゆっくり思えるのか、というような、安心した気持ちで静かに過ごしている。


先日、仕事ではない場で「あなたは今何がしたいのか」と聞かれドキッとした。
"社会人"、"会社員"に染まってしまって今、自分というものがなくなってきたのだとその時に気付かされた。
海外にいた頃あれだけあったように思っていた「やりたい」という主体的な気持ちがどこかにすっ飛んだ。

そういえば少し前会社でも何度か「今後どうなりたいか」と聞かれたが、全く持って答えられなかった。

少し向き合ってその理由を探ってみる。

主体的であると心が折れるからではないだろうか。


自分の人生の舵を自分が握っていいと思えるようになったから、"会社員"でありながらも、自分はこう思う、という気持ちにいい意味で蓋をせず、少しはわがままにやっていたように思う。それでも、自分がやりたいことを常にやれるわけではない。
それは私がまだ会社内で歴が浅いからでもあるし、会社のバランスとして仕方ないからでもあるし、そもそも会社としてくる仕事を選べないからである。
理不尽だというより、そうなる理由はわかる、致し方ないと思えるくらいには客観視する視点を持って働いている。だけれども、そんな状態が常な状況で急に「何やりたい」と言われても、
「いや、希望や意思を持つことに何の意味があるんですかね」と返したくなるのだと気付いた。

日本の"会社員"たちが主体性をなくし、そのことに疲弊するシステムを体感できたわけだ。
そりゃみんな自分探ししたくなるし、フォルケ(デンマークの学校)にも行きたくなるよな?と思う。


大人にならされているんだなあ。


と書きながらふわーとベットの上で伸びをしたらお茶をこぼして本にかけてしまった。
いっけね。

少し冷静になり、何を書きたいんだろと自問する。

自分の言葉がなくなることがよくないと言う話なのか?実はそうではないように思う。
自分に向き合い続けるのはそれはそれで結構辛いから、目の前の何かに集中せざるを得ないことはまあまあありがたかったりする。
さいきん書くことができてなかったのは向き合いから避けていたから、言葉がでてこなかったからで、自分の言葉を出すことをしないでいい楽さに甘えてたからだ。


と、これまで書いた自分の久々の言葉を読み返してみる。
ふと、何がやりたいかを問われているのではないのかもしれないと読み返して思った。「なにをやりたいか」ではなく、「どうありたいか」なのかもしれない。
似ているけど、前者はどんなコトを行いたいか聞いている。デザインをしたい、作品を作るたい、金を儲けたい。。。など。
一方後者はどんなコトに対しても付随する私自身の態度を問われている。誠実にや、大胆に、柔軟にや、抜かりなく。など。
自分の態度はあくまで自分で決めて誰の許可なく実行していい、自分の手の中にある行為だ。


「ほおん。そうかもな。どうありたいかかー。」

もうちょっとゆっくり考えて過ごしていいかもしれない。
と思うと同時に、もうすでに自分のありたい姿と、少し近くにいれている気もしている。

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