死刑制度と命、生や死を考えた日 - 何もかも憂鬱な夜に/中村文則
何もかも憂鬱な夜に、あなたは何を考えるだろうか。
ひたむきに"生"と向き合った作品
中村文則さんの「何もかも憂鬱な夜に」。
死刑制度、そして人の生死に向き合った作品とのことで何気なく手に取った小説だが、読み始めるとどこか違和感があった。
重い内容の割にページをめくることへの抵抗感があまりないのである。
人間を人間たらしめているものは何なのか、人を殺してはいけないというルールがあるにもかかわらずそれを守ることができない人間がいるのはなぜなのか、そういう人間の奥底にある衝動とは何なのか、なぜ人を殺してはいけないのか、なぜ生きるのか。
これらは必ずしも明確な答えがある問いではない。
ただし、その一つ一つから一切目を逸らすことなく、ある種暴力的に、しかし丁寧に、誠実に作者なりの答えを紡いでいく様は圧巻であった。
その容赦のなさの中に叱咤のようなものも感じられ、思わず購入したその日に読了してしまったという次第である。
死刑制度については考えないこともなく、この小説を通じて自分の考えが整理されたような気がするので、熱が冷めないうちに感じたことを記録したい。
前提として、今後諸々文献等読もうと思っているが、現状死刑制度の知識がほとんどない状態で文章を書いている点ご承知おきを…。
▼ちなみにあらすじ
刑務官の主人公は、夫婦を殺害した20歳の未決囚を担当している。
控訴しない限り1週間後には死刑が確定するのだが、この未決囚はそうしようとはしない。
自らの過去とどこか重なる未決囚と過ごす中で自殺した旧友や深い影響を受けた恩師の記憶が蘇り、自分の中の混沌や未決囚に対する審判に向き合っていく。
死刑制度の存在意義
人を殺した人間なら、その命は奪っても良いのか
私は死刑制度には賛成ではない。
曖昧な言い方をしてしまうのは、賛成はしていないものの、重大な罪を犯した人間にはどうしても死刑を望む気持ちが生まれてしまうためである。
例えば、何人もの人をレイプした奴が現れたら死ねと思ってしまうし、それこそさっさと死刑にしてくれと望んでしまう。
しかし同時に、これは限りなく一時的な「感情」であり、この「感情」が死刑制度を支持するものであってはならないとも考えている。
死刑制度は、執行そのものよりも抑止力的な機能が期待されるべきだと思う。
ハンムラビ法典式に、犯罪者には被害者と同じ痛み(殺人の場合は死)が与えられて然るべきだ、という理屈も理解はできる。
ただしこれは上記の「感情」と同義であり、それが死刑制度の存在意義になれば、殺してしまいさえすれば臭いものに蓋ができるということになりかねない。
それは根本的な解決ではなく、諦めに近いのではないだろうか。
うまい良い方が見つからず悔しいが、人を殺したことが命を奪われる理由にはならないのではないかと思う。
死を以て罰とすることへの懐疑の理由を長らく言語化することが出来なかったが、今回小説内のある一節にその糸口を見つけたような気がする
人間と、その人間の命は別物。
ここで言われている命とは、きっと生物学的な、客観的な事象を指すのだろう。
それは意思を持たず、犯罪を行ったのは思考することができる人間の方である。
命そのものに罪はないから、それを奪うことで人間への罰としていることにどこかで理不尽さを感じていたのかもしれないと腑に落ちた。
人間への罰は、自分の犯した過ちと対峙させることであるべきだ。
自らが犯した過ちを悔い改めさせることであるべきだ。
小説や映画、ドラマで散々叫ばれていることをようやく本当の意味で噛み砕けたようだった。
主人公はまた、こうも言っている。
罪を犯したものには生きる責任がある。
自分がしたことがなぜいけなかったのか、考え反省する責任がある。
その意味でも、死刑により命を奪うことは適切ではないと感じているのかもしれない。
小説には、二面性を持つある受刑者も登場する。
拘置所内では主人公の同情を誘う振る舞いをしていたが、出所後再犯したのである。
主人公は、自分の判断で受刑者を世間に戻した後悔の念に囚われ続け、再開した時にはやり場のない怒りを暴力で振り翳した。
私もそれなりに生きてきた中で、不可抗力の悪の性質を持っている人は存在するということを知った。
どちらかというと性善説を支持しているので、そういう人と出会った時はその思考を理解できなかったりする。
正直、そういう私にとって理解の範疇にいない人間に対しても、死刑では罰せないと言えるかというと閉口してしまうが、この辺りは、文献等読んで改めて考えてみたいと思う。
「尊い命」の本当の意味
「命を大切に」
「死んではいけない」
「生きてるだけで丸儲け」
正直に言うと、この類の言葉を素直に飲み込めたことがない。
なぜ生きるのか(生きていかなければいけないのか)、疑問に思いながら日々を過ごしているところがある。
その点に関しても、本書ではヒントになりうる一説があった。
自分の人生の経験が浅いばかりに、生死の話をするとどうしても陳腐な言葉しか出てこないのだが、私たちは信じ難い奇跡の上に存在し、生きている。
そのことは理解していた。
ただ、最後の一文「途方もない奇跡の連続は全て、今のお前のためだけにあった、と考えていい」という部分にひどく心を揺さぶられてしまったのだ。
今生きている自分を、これほどまでに力強いことばで肯定されたことはなかったように思う。
意味のない世界に意味を生み出し生きていくことは簡単ではなく、ふと我に返るとその無意味さに絶望する。
しかし、今の私には、この言葉がある。
連綿たる命の連続の果てに、私がいる。
私には生きる自由、権利、そして義務がある。
そんなような後ろ盾というか、許しというか、肯定を見つけ出すことができたことにも、本書を読んだ意味があったのだろう。
何もかも憂鬱な夜が何度訪れようと、本書を読み返そうと思う。
「何もかも憂鬱な夜に」中村文則(2012)/集英社文庫
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