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協調する人たち(Collaborators)

本記事は、2016年2月21日、Bruno Fadutti氏が投稿した「Tous Collabos 
(英題:Collaborators」)」の翻訳である。

やや古い記事ではあるが、それなりに訳す価値があるように思われる。内容は、協力ゲームに関する話だ。ある部分については、やや意見が分かれるように思われる。

翻訳にあたり、cooperateとcollaborateを区別する必要があった。前者を「協力」、後者を「協調」と翻訳しているが、日本語的にはほとんど同義のように思われる。Faiduttiが、どういう使い分けをしているかについては、文言からではなく本文の内容を参照されたい。

また、いつものように元記事にはフランス語と英語で記載されている(Faiduttiはフランス語を母語としている。)。英語だけでなく、フランス語の文章も参照しつつ翻訳していることから、英語だけを見ると翻訳が異なる箇所がある。その点は、ご容赦いただければと思う。かなりフランス語と英語のニュアンスが異なるので、どちらを基本とすべきかは難しいが、私の言語能力の観点から、英語を基本とし、必要に応じてフランス語を参照している。

元記事は、以下のリンク先を参照されたい。ヘッダー画像は、みんなのフォトギャラリー機能を利用させていただいた。なお、念のために申し添えておくが、私がこの記事の内容に賛成しているとは限らない。

ウィリアム「ベティナリ卿、私は全員が団結できると考えていますよ。」
ベティナリ「あぁ、私はそうなることを願わないね。団結は暴政や独裁政治を目的とする。自由人というのは、あらゆる目標を引き入れるものだ。」
Terry Pratchett「The Truth」

協力するのか、協調するのか

ほとんどのボードゲームというのは競争的だ。競争というのは、厳しく、プレイヤー間で直接対立する可能性がある。占領した全ての領土、勝ち取った全てのお金、入手した全てのカードが別のプレイヤーに奪われてしまうように。最初にゴールを通過するレース、最も素晴らしい街や王国なんかを建設するための和やかな雰囲気で行われる対立関係といった形で、競争の厳しさを和らげることもできる。ほとんどの場合、競争というのは、その中間のどこかに位置している。つまり、全面戦争にならないように相手を気遣う競争だ。そして、競争のない、少なくともプレイヤー間に競争のないゲームがある。協力(cooperative)ゲームでは、プレイヤーが共通の目標に向かって一緒に戦ったり協力したりする。

こういった協力ゲームについてかなり詳しく検討する前に、数年前にこの話題について既に書いたことの一部を踏まえるために、こういったゲームを説明するために時として使われる別の表現(少なくともフランスで使われる。)を排斥しておきたいと思う。その表現とは、協調(collaborative)ゲームというものだ。協調というのは、遊び方を示すものではなく、作業の仕方を示すものである。ゲームを協調的と呼ぶことは、そのゲームには何らかの共通した作業があることを示唆する。それ(※協調という言葉)は、ゲームには生産的又は成長的(formative)な要素があるとか、あるはずだとかという考えを示していることになるが、私がゲームデザイナーとして常に強く拒絶してきたものだ。もし、プレイヤーが遊ぶこと以上に別のことをしていないのであれば、協力しているのであって協調しているわけではない。

簡単な歴史の話

ヨーロッパで最も売れた協力ゲームは、いまだに1980年代初頭にHABAから出版された「The Orchard」だろう。このゲームは、大きくて素晴らしい黄色の箱に、かわいいかごと木製の果物、それに共通の敵となる悪い黒カラスが入っている。箱には、3歳以上向けと記載されているが、5歳や6歳では全くつまらなくなるとまでは記載されていない。私は、若年層のゲーム市場についてはほとんど知らないが、「The Orchard」はその種のものとして初めての作品ではなかった。アメリカの子供達のほとんどは、大抵、面白くもない、Family Pastimesの協力ボードゲームの1つを遊んでいた。

かわいい子供たち向けのかわいいゲーム

卓上のロールプレイングゲームでは、プレイヤーが協力し合うとともに、ゲームマスターが敵というよりも司会役に近いことから、協力ゲームの一種ともいえる。そして、このことは、団結が暴力とは両立しないことを示している。このことは後述しよう。カードと駒が箱に入っているもっと古典的なボードゲームの話を続けたい。2000年に出版されたReiner Kniziaの「The Lord of the Rings」は、主要デザイナーが手がけた大ヒット作として注目に値する最初の作品だ。この作品は、幾分忘れ去られてしまっている。その主な理由は、今までに類がないものであったが、それ以降、多くの進化があった結果、少し原始的に感じられるようになったためだ。けれども、おそらく1990年代と2000年代に最も多くの作品を残したデザイナーであるReiner Kniziaは、数百個も競争ゲームを出版しており、決して競争ゲームを嫌がっていなかったことは触れておこう。

真の始まりのゲーム

他の多くの協力ゲームが「The Lord of the Rings」に追従したが、そういった作品群の初期は、「The Lord of the Rings」に強く触発されていた。「禁断の島」、「Forbidden Desert」、「Thunderbirds」、そして何よりも人気の「パンデミック」といったゲームのデザイナーであるMatt Leacockは、このジャンルの専門家となった。彼は、私の知っているただ一人の専門家だ。

Matt Leacockが手がけたいくつかのゲーム

ボードゲームデザイナーのほとんどが、マイナーで比較的難しいジャンルとして協力ゲームに挑戦した。私の知っているゲームデザイナーの誰もが、戦争、レース、対立その他の競争の形式をとった古き良き不快な(nasty)ゲームを断念することはなかった。私はどうかというと、2008年の「レッド☆ノベンバーを救え!」の後に(※協力ゲーム作りを)続けなかった主な理由は、おそらくブラフシステムにますます興味を持ち、純粋な協力ゲームにブラフ要素を取り込む方法がいまだに見つからないからだろう。ただ、私の他のお気に入りのテーマであるリスクテイクであれば、(※協力ゲームに取り込むことは)ずっと簡単なんだけどね。

私もやったさ。

「The Lord of the Rings」のボードゲームが発売された時、ボードゲームの全く新しいジャンルがこの作品から生み出されたんじゃないかと思ったことを覚えている。まさにそうだったんだけど、協力ゲームがゲーム業界やゲームビジネスの中で真に主要な部分に位置付けられることになるまでには、私が想像していた以上に時間がかかった。この二、三年で、ドイツ年間ゲーム大賞(the Spiel des Jahres)を受賞した「花火 / HANABI」や、「パンデミック」、最近の「パンデミック:レガシー シーズン1」(私は、まだプレイしてない。)、「ミステリウム」、「グリッズルド 友情は戦争より強し?」といったような協力ゲームはベストセラーとなった。そいつは良いニュースだし、私は「ミステリウム」が大好きだ。西洋版のわずかに競争要素が入ったルールよりも、オリジナルの純粋な協力ルールのほうが好きだけどもね。

受賞作にベストセラー

政治的な妥当性(ポリティカル・コレクトネス)

協力ゲームは、パリ東部やそのほかの地域出身の環境問題意識の高い、リベラル・左派の流行に敏感な人たち(hipsters)における最新の政治的な妥当性をもった流行だ。このことには非常に腹立ちを覚える。特に、普段、私は、こういった人たちのことが好きだし、私の住んでいるパリ東部に位置するベルヴィルのことが好きだからね。

このことには、ぶつくさと文句を言うに値する政治的な理由がある。それはというと、これらの理由は誤った経済分析と、ゲームとはどんなものか、ゲームとは何を表すものか関する誤解に基づいているからだ。大まかにいうと、悪のグローバル資本主義が、伝統的な競争ゲームにおいて、大規模な自由競争を表現することで奨励しており、協力ゲームに組み込まれた持続可能な発展を
通じて、より良い明日を築くための大規模な包括的な団結のために、それに反対する義務があるという考えだ。グレゴリー・マンキュー(※ハーバード大学の経済学部の教授で、ニューケイジアンの代表格。「マンキュー経済学」は経済学部の大学生の御用達図書の1つである。)の教義(catechism, ※公教要理)で説明されているような、現代の資本主義が混じり気のない暴力的な競争を多く含むという考えは、よくある間違いだ。もちろん、起業家同士の競争(それに労働者間での競争)は、資本主義が想定している元々のエンジンである。しかし、現代の資本主義は、カルテル、談合、黙示の共謀が数多く存在する。イタリア語でいえば、結託(combinazione, ※イタリア語に疎いが、そういう意味ではないようだ。)だが、それらは、必ずしも暴力と関連するわけではないようだ。グローバル企業も、"団結心"を促進し、"企業文化"や似たようなクソみたいな戯言(bullshit)を強化するために、協調ゲームと呼ぶのを好むのだが、そいつらも協力ゲームを大きく活用している。恩を仇で返す(a snake in their bosom, ※獅子身中の虫。映画「エイリアン」のチェストバスターを念頭に置いていただければ。)ようなものを許容するとは思えないよね。

チェーンソーやセミオートマチック・ライフル、それに両手に刀を持つことが、より良い明日を築くための最適なツールではないということには賛成するが、これもって、私たちが望み得る最高の世界に住んでいることにはならない。その上、世界をもっとかわいらしくて素晴らしいものとするには、暴動、戦闘、論争、狡猾さ、陰謀が必要かもしれないし、多少の不正を働くことになるかもしれない。競争ゲームをすることは戦争や野蛮な資本主義の隠喩であって、協力ゲームをすることは世界平和や持続可能な発展のためのツールだと宣言することは、かわいらしい考えだが、その推論は大きく誤っている。

素晴らしくて善意のある教師は、こう答えるかもしれない。協力ゲームは政治的な問題に直結しないかもしれないが、少なくとも卑劣で品のない競争ゲームよりかは道徳的に優れていると。漆黒のカラスやサウロンの邪悪な目、震え上がるようなサイロンに対して、みんなが勝利し、時としてみんなが敗北するので、屈辱を感じる個人の敗者はいないし、際立って誇らしげに思う勝者もいない。まぁ、あらゆるゲームに関する共通の特徴というと、ただのゲームにすぎず、勝ち負けというのは、プレイ中は根本的であるけれどもゲームが終わってしまえば重要でなくなるということだ。そうではないと感じることは、単にひねくれてるってだけだね。

論理的にいうと、ゲームが社会的に有用な価値を教えることができると考える人たちは、ゲームが有益な価値を伝えるべきだと主張する人々でもある。古いスタイルの競争ゲームからは、全ての人は自分のためにという利己主義(egoism)を学んでしまい、貧しい子供は不良に、裕福な子供は冷酷な資本家にしてしまう。他方、協力ゲームからは、議論、討論、寛容さ、団結を学ぶ。こういった甘い考えの言説からは、原因と結果を逆に考えてしまい、子供たちから水鉄砲と暴力的なビデオゲームを取り上げることで社会的な暴力と戦うことができるなんて考える善良な人々のことを思い起こさせる。もし、この推論に従うとしたら、子供たちが堕落者やテロリストになってしまうドストエフスキーを読むことや、悲しい暴力を振るう、自暴自棄のサイコパスになってしまうシェイクスピアを読むことも禁止すべきことになる。けれど、当然、文学は、大文字のK(a big K, ※直訳したが適切な訳が思いつかなかった。)がついた本物の文化の一部であるが、ゲームは、私たちのような賢い人たちが教育しなければならない子供や頭がイカれたやつのためにあることになる。

みんな自分のために協力しよう

私が違うと思っていたり、そうであるべきではないと考えていたとしても、ゲームから実社会における有益な価値や分析的な理論を学ぶことができると仮定しよう。協力ゲームは個人の勝者も敗者もいないが、それよりもはるかに問題となるものをもたらすことが多い。それは、アルファプレイヤー(alpha-player, ※奉行問題)といって、プレイヤー全員のために実際の意思決定を全ておこなってしまうリーダーや指導者(ゴドウィン点に到達する前に翻訳するのを止めておこうか。)のことだ。真の協力ゲームや、特にあちこちにある「The Orchard」のような幼いプレイヤー向けのゲームは、実際のところ、最適解の戦略をもつ1人用ゲームなのだ。同じ年齢、同じエネルギー、同じ能力のプレイヤーが、この最適解の戦略を見つけるために協調するかもしれないが、ほとんどの場合、あるプレイヤーが主導権を握り、多くのプラムが残っている場合には、カラスにプラムを食べさせたほうが望ましい理由を説明することになり、協調性を学ぶための道具としてデザインされたものが、主導権と服従を学ぶ道具と化す。でも、真面目に考えてみよう。アルファプレイヤー症候群の唯一の実際上の問題は、全ての意思決定を下す1人のプレイヤーだけが楽しんでいることにある。ゲームの目的は、何かを教えることではなく、プレイヤーたちにゲームプレイを楽しませる(have players enjoy the ride)ことだ。もし、たった1人だけが楽しんでいるとしたら、そのゲームは失敗だ。

アルファプレイヤー症候群によって影響され得るゲーム。当然だが、そうなるかはプレイヤー次第になる。

もちろん、賢いゲームデザイナーは、主導権の問題を避ける避ける方法を見つけている。積み木建築ゲームである「Castle Knights」のような子供向けゲームの中には、課題を解決するために、実際にチームとして行動するように求めるものもある。

真の協調

大人向けゲームにおいて、「Shadows over Camelot」や「Battlestar Galactica」のような裏切り者の可能性があることを導入すれば、強い疑念が生まれて、完全に自由闊達といった形の議論が避けられる。こういったことが非常に興味深い心理的な特徴をもたらすと思うが、糾弾や厄介者探しは、協力ゲームを推している左派でリベラルな教育者が伝えたいと考えるものではないと確実にいえる。とにかく、こういったことによって、サマーキャンプで「人狼」がプレイされなくなるわけではない。「人狼」は素晴らしいゲームなのだから、最終的には最善の結果につながるというわけだ。

プレイヤーの中に裏切者がいる

もう1つの解決策は、経済学者がコーペティション(coopetition, ※普段は競合関係にあるが、新しいプロダクトやサービスを市場に浸透させる段階において協力し合う関係)と呼ぶもので、プレイヤー全体が敗北することを避けるために、自分自身の目標を追求しつつ、ある程度までは協調する必要があるというものだ。私の作品である「Terra」はコーペティションゲームであり、全てのプレイヤーは何もせずに利益を得ようとして、共通目標に対して最小限の貢献しかしなくなる。まさしく地球を救う実情そのものだ。「デッド・オブ・ウィンター」というゾンビゲームにおいては、ゾンビがたちまちやってくるので、(※それを排除するという)共通の目標があるけれども、各プレイヤーは、勝利レースに入り込むために秘密の個人目標を達成しなければならない。

コーペティション

また、Reiner Kniziaが「The Lord of the Rings」で既に採用し、Antoine Bauzaが「花火 / HANABI」で更に厳格に取り入れたように、プレイヤー間のコミュニケーションを制限し、各プレイヤーは自身の意思決定を行わなければならなくする方法というのもあり得る。みんなで討論するのはもうおしまいだね。最も見事な解決策は、おそらく「ミステリウム」で採用されたもので、あるプレイヤーが正解を知っているが、他のプレイヤーには夢で見るような(oneiric)絵が描かれた"幻視カード"を手渡すことで正解を伝えなければならない。このようにして、(※「ミステリウム」は)制限されて主観的な詩的言語を生み出している。

幽霊の命はただの夢にすぎない。

チームゲームはそれ自体が1つのジャンルとなっている。私はチームでプレイするのが好きだが、チームゲームをデザインする方法については本当に見当がつかない。大半のスポーツを含めたチームゲームにおいては、パートナーと対戦相手のチームとの競争との間に協調がある。そういった理由から、おそらくスポーツが学校でかなり定期的に用いられるのだろう。私はというと、学生時代にはスポーツ自体が大嫌いだったけれども。問題は、スポーツはリーダーシップを奨励し、2つのグループ(two sides)に分かれたゲームの世界を生み出すことだ。しかも、あまり政治的に妥当ではない形で。だからなんだっていうんだ。ゲームが競争や協調を学ぶためにデザインされたことなんてなくて、プレイヤーに楽しみや興奮をもたらすためだけにデザインされている。それに、それが単なるゲームで、何かを学ぶためにテーブルに座ったと思う人がいない限り、他人と対戦しようが、他人と一緒にプレイしようが全く問題ないだろ。そんなこと、本当は誰も気になんかしてないって認めてしまおう。

その他のこと

この政治的な妥当性という動向は、教育者や、協力ゲームに熱心なプレイヤーの大部分の中では強いものとなっている。けれども、ゲームデザイナーの中ではこの傾向は弱いものとなっている。デザイナーの多くは、前もって偽善的なふるまいがされるという疑いを払拭するためや単に楽しいといった理由で、暗く、暴力的で、曖昧な設定の協力ゲームを意図的にデザインする。

Shadows of Brimstone: City of the Ancients」は言い表せないほどの恐怖に満ちた協力型のダンジョン探索ゲームだ。ロシアの原子力潜水艦であるクルスクの沈没に基づいてデザインされている私の「レッド☆ノベンバーを救え!」では、ウォッカはあらゆる種類の問題解決に役立つワイルドカードとなっている。反対に、私の政治意識の高い唯一のゲームである「Terra」は、意図的に曖昧にしていて、協力要素と激しい競争要素を備えている。しかし、私の知るデザイナーの誰も、プレイヤーが悪人、宗教裁判官、ナチスといったようなものを演じることとなる協力ゲームを想像したことがなかった。多少の政治的な妥当性は、おそらく必要だろうけどね。

協力型のウォーゲームですら、テーマが攻撃ではなく、防衛となっている。この皮肉が意図されたものかどうかはわからない。

しかし、ゾンビはどこにでもいる。ゾンビは、皮肉の効いたポップカルチャー的なルンペンプロレタリアート(lumpenproletariat, ※階級意識を持たず、そのため社会的に有用な生産をせず、階級闘争の役に立たず、更には無階級社会実現の障害となるプロレタリア層)やよそ者の隠喩だ。もし、ニュースにこだわりたいのであれば、難民を付け加えてもいいかもしれない。アメリカの中流階級の生活の重要な部分を占めるショッピングモールを脅かす存在だ。ゾンビは固体ですらない。群れであり、あふれかえるほどの差別のない群衆だ。そういう理由から、みんな吸血鬼や人狼を演じることができるが、ゾンビに対しては一緒になって戦うことになる。「ゾンビサイド」、「デッド・オブ・ウィンター」、「Zombie 15'」のようなゾンビゲームは、ほとんどの場合、協力型だが血みどろの暴力的なゲームだ。私は、ゾンビには少し不安にさせられるが、その皮肉を理解するよ。最も真剣である、政治的な妥当性という派閥に属する人たち(sectarians)の反応によって、必ずしもこういった皮肉に気づいてよく理解できるとは限らない。ゾンビゲームのデザイナーの中で誰がゾンビテーマを用いることとして、論理的に協力システムを用いることにしたのかとか、誰が協力ゲームをデザインしたいと思って、一貫性があるがあまりに感情的にならない設定を探していたのかとかといったことを知ることは興味深いと思う。

素敵で白髪の

そうであっても、感傷(sappiness, ※原文はsoppinessとなっており誤記と思われる。)にふけることなく、完全な政治的な妥当性を保つことは可能だ。私は、心の底から喜んで以下のゲームをプレイしたことがあるし、プレイしようと思う。

「パンデミック」では、プレイヤーは、見込まれるあらゆる色(※のウイルス)を覆う白衣を着ていて、人類を全滅させかねない致死的なウイルスを封じ込めて根絶させるために協調する科学者となる。このゲームは「リスク 世界戦略ゲーム」や他の古いスタイルのウォーゲームに少し似た世界マップ上でプレイし、細菌(bacilluses)やウイルスとの戦いにおける敗北と勝利が連続していくような気分になる。

「グリッズルド 友情は戦争より強し?」は、それとは別の方法でデザインされた。設定は戦争だが、下(※現場の兵士)から見た戦争で上(※上層部)から見た戦争ではない。プレイヤーは参謀や地図上の名もなき兵士を操る上官ではない。プレイヤーは、第一次世界大戦中のフランス軍の一般歩兵であるCharles SaulièreやAnselme Perrinである。彼らの唯一の目標は、一緒に生きてここ(※戦場)から脱出することだ。「グリッズルド 友情は戦争より強し?」は、単なる協力ゲームにとどまらない、最初の反軍国主義的なボードゲームだ。そうでなければ、少なくとも、真のゲーム文化を備えた者がデザインした初の良いゲームであって、悲しくも心を動かされるゲームとなっている。「Freedom: The Underground Railroad」は未プレイだけれど、アメリカのゲーマーにとっては、これと少し似た感覚を覚えるかもしれない。

「Freedom: The Underground Railroad」は、高い政治的な妥当性を備えて、強い感傷さをなくしたもう1つの協力ゲームだ。

ロビンソン・クルーソー」の設定は、ゲーム中にはロビンソンに関する言及は何個かあるが、非現実的であるだけでなく、高いテーマ性と興味を引きつけて離せない冒険物語を可能としている。「グリッズルド 友情は戦争より強し? 」と同じシリーズとして間もなく出版される「Kreus」では、平和、調和、花々、かわいらしい小鳥の世界を築くために非常に建設的な方法でプレイヤーは協調する。まぁ、ルール上、プレイヤーは長であるクロノスに反乱を起こすティーターンとなるから、素敵なやつってわけじゃないんだが、それを強く主張してはいない。

世界を築く

政治的な意味や社会的にみて肯定的な設定というのは、優れた小説と同じように、優れたゲームに要求されているものではない。あってもいいさ。ただ、教訓主義(didacticism, ※文学などの芸術の、教育的側面を重視する考え方)や感傷的にならなければだけどね。30年間、ゲーム業界にいるが、情熱をもったデザイナーによる、平和、多様性、ごみの分別、持続可能な開発を通じてより良い明日を築くことをテーマにした意欲的なゲームを数多くみてきた。そういったゲームは、平和、多様性、ごみの分別、持続可能な開発を通じてより良い明日を築くことをテーマにした小説と同じくらいわくわくするから、全部忘れ去られてしまったよ。「パンデミック」や「グリッズルド 友情は戦争より強し?」は、かなり大胆だったね。

平和的な競争と多人数ソリティア

攻撃的な対立ゲームと積極的な協力ゲームとの間には、多かれ少なかれ平和的であったり、競争要素を削ったりするといった点で、広範な連続性(continuum)がある。最もよく知られているのは、戦争に関するゲームがいまだに非常に強いタブーとなっているドイツでデザインされて最初に出版されたという意義深さのある「カタン」だろう。商業的にいえば、「カタン」は、当初、ドイツの家庭を対象とした「リスク 世界戦略ゲーム」の政治的に妥当性のある代用品であった。ここからすると、各プレイヤーのプレイの大部分が対戦相手との争いか自分自身との争いに占めているのかによって、競争ゲームの区別をすべきということになる。そうすると、3つのカテゴリに分けることができる。最も洗練された(coolest)ものから最も意地の悪いまでを順に挙げると、全プレイヤーが一緒になってプレイする協力ゲーム、各プレイヤーが自分のためにプレイする平穏な競争ゲーム、プレイヤーが他のプレイヤーと争う対立ゲームがある。これを言い換えると、他のプレイヤーは、パートナーか、競争相手か、敵かとなる。

平穏な競争ゲームは、たとえレースゲームや、「カタン」、「チケット・トゥ・ライド」のような開発ゲーム、それに全プレイヤーが自分の小さい個人ボードでプレイする「プエルトリコ」のようなエンジンビルドゲームであっても、かなり競争的になり得る。それに、おそらく、見た目的にはバチバチに争うようなゲームよりも、現代の資本主義のように感じられるだろう。暴力的な要素のない見た目と印象は、論理的にも年代順的にも(chronologically)、対立と協力の間の中間的なカテゴリに分類させる。残念ながら、競争が平穏になればなるほど、プレイヤー間のインタラクションが少なくなっていくことも意味し、極端なものは、時々"多人数ソリティア"としてバカにされるゲームで、ボードゲームがビデオゲームに優れた点の1つである社交的な側面がほとんどなくなってしまう。協力と対立は、プレイヤー間にインタラクションを生み出す2つの異なる方法だ。とはいえ、段階があるし、「カタン」、「Ave Caesar」、「チケット・トゥ・ライド」のような偉大なゲームの魅力と面白さ(efficiency)は、対戦相手を妨害したり、阻止したりさえする機会がもっと多くあるという事実に由来する。あんまりいい気分はしないよね。

※X軸がシステムの邪悪さ、Y軸がインタラクションの強さを表している。そして、項目として、左から協力、平穏な競争、対立となっている。

各プレイヤーが自分のためにプレイしたり、小さい個人ボード上でプレイしたりする直接的な対立のない競争ゲームの人気は、協力ゲームの成功の背景にあるのと同じ仮定を弱めてあまり意識されない形になってるのではないかと思う。つまり、意地の悪いゲームをプレイしなければ、みんな意地悪くならずに、洗練されて考え方が現代的になれるだろうという考えだ。この考えは、ゲームの本質が現実から完全に断絶されているという単純明快な理由から間違っている。この傾向の唯一の測定可能な結果は、プレイヤーがゲームをあまり楽しくプレイできなかったということだ。これはボードゲームに当てはまるし、ある意味でセックスにも当てはまる。

裏切者のいる「ミステリウム」

「人狼」や私の最近のお気に入りである「ディセプション」といったさまざまな競争と協力を掛け合わせたゲームの数が増えていってることから、システム的には、競争ゲームと協力ゲームを対比させることは誤りだ。協力ゲームは、小さいボードゲーム界隈に新しい風を送り込んでいるが、それ以前に作成された全てのゲームを直ちに時代遅れのものとするわけではない。新しいゲームシステムや新しい設定をもたらし、「Forbidden Desert」、「パンデミック」、「グリッズルド 友情は戦争より強し?」、なによりも「ミステリウム」のような傑作を既に生み出した。けれど、こういったゲームは、いまだに競争ゲームをプレイしているファシスト予備軍や不良を蔑むことなく、楽しむことができるし、宣伝することができる。協力ゲームは、新しくて異なるゲーム体験を提供する。それは素晴らしいが、道徳的に優れているというわけではない。

アメリカの読者に対する追記:フランスとヨーロッパの読者は、私がこの記事で取り組んだことをよく理解してくれたけれども、アメリカの読者のリアクションは困惑といったように思える。私がアメリカやカナダにいる時に、異国にいるような感覚を覚えなかったし、西洋世界全体は、実際上の違いのない1つの大きな文化圏だと思っていた。だが、一見すると同じだが、その細部は異なるということ(the devil is in the details)を日に日に発見することになった。それに違いは思った以上にはるかに大きいものだった。ヨーロッパでは、アメリカ人が、守るべき理念を嘲り、それゆえ害をなすような政治的な妥当性をかなり重要視していると考えられていた。そして、ヨーロッパにいる人たちのほうがずいぶんましという結論に行き着いたようだ。それに、私がこの記事でこけにしている熱心な協力ゲーマーといった類の人たちはアメリカにいない。もし、このことが平和主義者の、非暴力、環境意識の高い、人種差別反対主義者の、ヒッピーを卒業した(post-hippie)、リベラルな中流階級がアメリカでは少なくなっているということであれば、それは残念なことだ。そういった人たちは必要だし、全体的に良い人たちだからね。もし、このことが、ヨーロッパの人たちの性質よりも賢明で、ゲームや協力に関して鋭い見解をもっているというのであれば、そいつは最高な話じゃないか。あ、ところで、アメリカ人の女の子によって投稿されたブログのリンクがあるんだ。私が思うに、この女の子は、私が感じているのと同じような左派文化に対するいらだちを表現してるみたいだ。

以上

※Faiduttiの記事としては、ほかに以下のものがある(Faiduttiの一貫した考え方を知るにあたっては、末尾の「言い訳なんてする必要があるの?」が最も関連した記事となる。)。

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