シュピリ/罪と罰㊦
シュピリ/罪と罰㊤からの続きです。
私はキリスト教に詳しくないが、奈ザレ(=ナザレのイエス)の想いはソコソコ感じて知っている積もりです。それで私はキリスト教を躾(しつけ)の思想と捉えているし、奈ザレを人格形成の思想家と捉える。躾の思想に染まると人は教養を重視するようだ。そして人格形成の思想に染まって人は対話を重視する。私はキリスト教と奈ザレに特定して述べているのでなく、教養と人格形成の比較の一例として挙げたと受けとめていただけると有り難い。
奈ザレは対話や質疑応答を重視したが、それは人格形成の上でどうしても欠かせない要件です。対話・質疑応答から逃げる人に教養はそなわっても人格形成はストップしてしまうから飛躍的な展開は望めない。権威ある誰かが書いた文字を読み、丸暗記するだけなら対話の必要性を感じないのも仕方ないことでしょう。それで年齢をいくら重ねても人格が高まることはなく、それどころが歳取るごとに愚かになっていくのは必然の結果でしょう。
すなわち、罪を犯して罰を受ける思想は奈ザレのものでないこと‥明白です。仏教の思想はどうでしょう?罰論に二つあります。世間でよく言われる罰論は「悪いこと(罪)を犯したら罰が当る」です。もう1つの罰論をご存知でしょうか?それは道理です。「奈ザレのは道理に準じた思想」と私は捉えている。例えば「水に飛込めば濡れる」のが道理。道理に則って罰が出たり、功徳が出たり。どちらを出すか工夫するのは教養でなく人格形成による。
人格形成によって人は賢く生きる工夫をすることになる。これが教養なら?「女性は家で静かに過ごしなさい」という教養があったけど、その馬鹿馬鹿しさに現代女性は誰も納得しない。女性は走ってはならない‥大河ドラマいだてんで人見絹江が誹謗中傷されたが、悪しき教養に寄るものでしたね。あらゆる教養を先ずは疑って掛からなければならないでしょう。権威に唯唯諾諾と従うしか知らないなら、それは大人になれないコトナでしょうね⁉
こう導かれてきて、ここで罪とは何でしょう?対話拒絶の態度は罪と理解できるのでないのかな?対話拒否の態度は大人になれない、コトナになるしかなくて、コトナは罰に相当する。シュピリから学ぶべきは、私の場合はこんな所かな。私でもこれ位は学べるのだから、あなたならもっともっと深く学ばれるのでありませんか? 松永美穂氏に感謝しつつ、この項はいったん此処で置きます。シュピリ‥牧師の孫娘ですが、素晴らしい女性ですね。
※コトナ‥此処では元来の使用法に則ります。成人なのに心が未熟で大人に成れていない人。コドも & おトナとを合わせた造語でしたね。