理系&文系が融合する世界
主題を創造するのも想像するのもナンて愉しい私のひと時。そうは言っても素材が無ければ作品は有り得ないのですが、今回の素敵な素材‥野口悠紀雄氏の絶滅してくれた「ふれあい」と小言幸兵衛の日記:国語を大事にしない国民が繁栄できるはずはないから「さらなる」と言う古語を考えました。左脳系が得意とする科学の視点を右脳系(≒文系)は座視して済ませて欲しくないと想った。私でもそう想うのだから右脳系(文系)の方々はお礼のひと言も述べたいのでないかと‥それでこうして書いてもいるのですよ。(*^-^*)
そうは言っても私は野口悠紀雄氏にベンチャラを言うほど無礼を働けず、稚拙であっても感じたままを述べるしかありません。真と思えば真と言い、事実を知って事実と言う‥これこそが人間的で人権を尊重する態度に違いないと思っている私は、その視点からココnoteを使ってもいる。そうであれば誤まった意見や視点に気づきながら口を拭って(筆を折って)やり過ごすべきでないと結論づけるしかない。あなたは如何だろうか?損得を考えなければ今日・明日の暮しに差しさわりが出る人々は別に置いといて‥です。
故事に袖振り合うも他生の縁とあるように此処noteで私が野口悠紀雄氏と振り合うことになったのも他生の縁に寄るものであることを否定する意図は少しもない。ふれあうもふりあうも此処で細かいことは申しませんが、ともあれ振り合ったことが(私にとっての)善い縁になっているか悪縁になっているか‥ここが重要ポイントになるのでしょうね?難しい説教は坊さんでも出来る。苦労が絶えない日々の暮しの中で私(= 庶民)が掛けてほしいのは難しい説教でなくて生の温かい声。誰もがそんな想いのなかで暮してる?
言葉は時代に応じて変遷するものに違いなく、そのことで野口氏の感覚は文系のものと些かも異ならないようですし、いや、寧ろ文系以上の鋭い嗅覚を具えてらっしゃるようにも見える。私は、その一例としての根拠を「さらなり」に観る。氏は「言葉に嫌悪感を持つかどうか」と仰る。「重要なのは、言葉や表現に対する感覚」とも仰る。一往、文法は重視すべきだろうが、再往、さらに大事な要素に気づかなければなるまい。目的が好い加減では目標も好い加減になる。noteを烏合の衆の溜まり場にしても詰まるまい。
さらに‥「進化してこそ人」だろう。進化する途次の勉強には意味があっても勉強が目的となっては人としての生が余りにも勿体ないと教えてくださっているように思われる。氏は言葉の意味・価値を真っ当に生かすための真摯な姿勢を私たちに教えてくださっているように私には思われてならない。
さらなり‥(そんなことは)言うまでもないところまで行きつくことはないのだから、永遠に学んでばかりの私であることを覚えては感謝しております。
いやいや、勉強になります。有難うございますね。(*'ω'*)