縁(えん) & 主体
今私は「100分de名著アルプスの少女ハイジ講義4回目」を縁として全編を振返っているところ。松永美穂氏の名講義でそれまで感じなかった素敵な縁にいっぱい触れられて嬉しく想い、深く感謝しております。さて、物語を松永氏は「再出発する大人たち」と位置付けておいでに観える。そんなことは当然のあなたかも知れませんが、只ただ感動している私なのです。
再出発を再生と捉えてらっしゃる講師。私も「再生でなければ!」と思う。再生でなければシュピリの心を見失う。あなたは如何でしょう?再生‥主体の意識がないところで再生は観られまい。主体でなければ客体です。客体に前向きの意志はない。意思まで失われた客体も多い‥その帰結として人々の心は貶められて、所謂、ポピュリズムが社会に蔓延することにもなる。
8歳でもハイジは大人です。50歳でも80歳でもコトナはいます。大人になるのに年齢は関係ありませんからね。大人は主体。コトナは客体。コトナは再生不能。これはなんとも悲しい現実ですが、当人が選択した大人でありコトナですから、他者(の私)が決められることでありませんし、仮にあなたの親がコトナであれば親子のヨシミで諭してあげられるかも知れません。
まぁ、「ダメだよ」程度が限度でしょう。コトナは感情的になり勝ちですから期待なさらず気長に見守っておあげになってください。(今はそんなことより‥)主体は贈る側、客体は貰う側でもありますからね。シュピリ‥私たちへ贈った人ですね。松永美穂氏も贈った人。ハイジも贈った人。視聴者の私たちは貰った側の人。再生で、貰った側から贈る側へ立ち位置が替わる。
立ち位置を善く替われる人は大人ですし、替わらなければコトナかコトナの有力候補でしょう。シュピリは私のなかのコトナと決別をつけさせて上げたかったのだろうな。そう考えるとペーターの生の重要さが見えてくる。ペーターは再生でなく再成を期待したんだね⁉再成‥例えば、途切れた音楽の続きを聴くこと。貰う側で居続けようとして事件を起したんだったよ。
ハイジとの楽しい日々が途切れたことでペーターは辛かった。楽しい日々を取り返そう、途切れた関係をつなごう。それでクララに居なくなって欲しかった。まだまだ子供のペーターには親の保護が必要だったけど、無い物ネダリで幸せになることはできません。他者に幸せを贈れる大人になるしか自分の幸せは得られない。それが分らない人はコトナ。分るよね?
産れたばっかりのまだ認識できないころ、人の子は刷込みで親を認知する‥これは以前、どこかに書いたけど、ペーターには家族がいたんだ。だけど兄妹はいなかった。ペーターにハイジは欠かせない存在。欠かせない存在をどう守るべきか‥私には難問ですけど、得意な方はいらっしゃる。私たちは苦手な部分を互いに補いあう知恵を具える人間。理屈合ってます?(;^ω^)
いやいや、ペーターになれたら私ももっともっとマシな人間になってるかもです。(´・ω・`)