【掌編小説】ただ歩く#シロクマ文芸部
(読了目安3分/約2,200字+α)
「ただ歩く、それだけでいいのか?」
「はい」
微笑みながら頷く妻を、私は拍子抜けしたように見つめる。
「何か他に無いのか? どこか温泉に行きたいとか、何かが欲しいとか」
「いいえ。貴方が一緒にお散歩に行ってくだされば、それで十分」
確かに温泉旅行は、来月の金婚式に合わせて息子たちが計画してくれている。とはいえ、私としても長年連れ添った妻に何かしてやりたいと思ったのだ。だが、妻はただ歩きたいらしい。私には特に何も期待をしていないということだろうか。
「そんなことでいいなら、今からでも行こうか」
「あらまあ。嬉しい」
妻は着替えてくると言い残し、パタパタと部屋へ向かった。やがてやや明るい色彩の服に、髪をなでつけた妻は口紅まで指している。
「おい、ただの散歩だろう」
呆れて呟く私に、妻はループタイをつけさせ帽子を被せる。靴を履くと杖まで渡そうとしてくるので、それは要らないと断った。昨年末に足の骨を折った時、娘が買ってきたものだった。デザインは素敵だが、杖をついて歩くのはいかにも老人のようで恥ずかしくて使ったことはない。
「あら。じゃあ、私が借りてもいいかしら」
妻は嬉しそうに杖を揺らし、そのまま家を出た。
横に並んだ妻はすっと私の腕を取り歩き出す。私は思わず周囲を見渡したが、特に誰かに見られている様子はない。振りほどくのも悪いのでそのまま歩調を合わせた。
近所の公園まで来ると、ベンチに腰掛けた。私はここで七十八年過ごしているが、公園は子供の頃とは全く変わっていた。私が子供の頃はただの空き地で、十歳になる頃に、鉄棒とブランコができた。今では鉄棒の色は派手になり、ブランコは無くなり、代わりに遊び方の分からない大きな遊具がある。私の昔話に、妻は静かに耳を傾け、ブランコはついこの間まであったのよ、と教えてくれる。
私たちは並んで商店街の方へ足を運ぶ。この風景も昔から変わらない。車で二十分走れば大型スーパーがあるが、滅多に行くことはない。大昔に母に手を引かれて商店街を歩いたことを思い出す。
「ああ、浅野さん。こりゃ珍しい。お二人お揃いで。デートですか? 羨ましいですなぁ」
魚屋の主人が私たちを見て大きな声を上げる。私は思わず妻の手をほどき、顔を逸らして店から離れる。妻は気にしていない様子で、魚屋に近づく。
「こんにちは、宮本さん。今日もお元気ね」
「そりゃ浅野さんの顔を見たら元気だって出るってもんよ。今日はどっかお出かけ帰りですかい?」
「ちょっと近所の散歩をしていたのよ」
「そりゃそりゃいいことだ。こう天気が良い日は散歩が一番だね。で、今日はどうする? イワシかスズキ、キスあたりが新鮮だね。あと時期がちょっと早いけど、このタイはオススメだよ」
「まあ、立派ねぇ。今日はお祝いだからタイにしようかしら」
「お祝い?」
「来月金婚式なの。だから今日は前祝い」
「へぇー、そりゃめでたい! おーい、涼馬! これ頼むわ」
店の奥からエプロンをした若者が出て来ると、妻にペコリと頭を下げてタイを掴んで奥へ持って行った。魚屋が調理の仕方を説明している間に、袋に入ったタイが戻ってくる。店先の塀にもたれて待っていた私のところに、妻が魚の袋を持って、お待たせ、と帰ってきた。
「買い物の邪魔だから、これ持っていてくださる?」
私に杖を渡し、また上機嫌で商店街を歩き出す。私は疲れて鈍く痛む足を杖で支えながら、妻に話しかける。
「随分と魚屋と仲が良いんだな」
妻は立ち止まり、きょとんとした目で私を見あげた。そして明るい色の唇を手で隠し、ふふふと笑う。その笑い方がいつもと違い、内心どきりとする。
「ほとんど毎日ここに来ますからね。毎日顔を合わせていれば、商店街のみんなが家族のようなものよ」
妻は私の腕を取り、また歩き出す。程なくして、八百屋の女将さんが話しかけてきた。
「敏子さん、今日はどうしたの。良いわねぇ、デートなんて」
「加代ちゃん、こんにちは。そうなの、今日はその辺を少し散歩してみたの」
「まあ素敵。ウチのも少しは見習ってほしいわ。……まあ、私は一緒に歩きたくないけど」
二人は軽快に声を上げて笑う。口を開けて笑う妻は別人のようだった。いや、若い頃は、こんなふうに屈託なく笑っていた。子供たちが所帯を持ち二人で暮らすようになってからも、妻は笑顔を絶やさなかった。だが、こんなふうに笑うことはなかった。
私は鈍く痛む足を持て余しながら、八百屋と話し込む妻を眺めた。七十八年ここで過ごした私よりも、嫁いで五十年の妻の方がずっと地元の人間だった。
「さあ、帰りましょうか」
気がつけば、妻が戻ってきていた。両手に袋を下げた妻から、私は無言で野菜の入った袋を奪う。妻は驚いたように目を開き、すぐに「ありがとうございます」と口にした。
家に帰りいつものソファに座ると、私はすぐにウトウトする。次に声をかけられた時にはすでに窓の外は薄暗くなっていた。
食卓の中央には大きな塩焼きの鯛があり、良く冷えたトマトと浅漬けのナスとキュウリ、温かい味噌汁が並んでいる。
私は食卓に着くと、妻に声をかける。顔を上げ目が合うと、途端に私は言葉を詰まらせた。咳払いは出来るのに肝心の感謝の言葉は出てこない。一向に話し出さない私を見つめ、妻は少し首を傾げる。
「その、散歩ならまたつきあうよ。医者にも歩くよう言われているし」
「はい」
口元を固くして放った言葉を、妻は柔らかな微笑みで受け止めた。
シロクマ文芸部の企画応募です。
今回のテーマは「ただ歩く」。
皆様のを読むだけでダイエットした気分になれそうなテーマ。
先日、百の鳴き声を持つカピバラこといまえだななこ様より、ひよこ作「#シロクマ文芸部」のお話を朗読してくださるという宣言を受けましたので、読まれることを意識して書いております。詳しくはこちらをどーぞ↓↓
読まれることを意識すると、逆に妙なキャラを出したくなります。訛りが激しいとか。早口言葉が好きとか。宇宙語とか。語尾が「にゃん💓」とか。
……気をつけます(・∀・)
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