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おかあさんとわたしとこじいん

私は、それはそれは怒られる子どもだった。
もちろん私が悪いこともたくさんあったと思うんだけど、母の八つ当たりや支配欲が大きかったことは間違いがない、と客観的に感じている。
うちは私が小学校高学年になるまで母子家庭だったし、母は貧しい母子家庭の大黒柱としてはひどく不安定で、仕方がなかったと思うことにしている。

悲しかったことに「こじいん」の思い出がある。

「こじいん」とは孤児院のことである。
当時の私(たぶん本当に小さかった)が正しくその漢字に変換して理解していたかはわからないけれど。
そこに入ることになったら今まで通りおかあさんと会えないこと、だいすきなおじいちゃんやおばあちゃんに簡単には会えないこと、そのとき住んでいた団地に自分の居場所がなくなること。
とにかく悲しいことが起こるのだと聞いていた。

母は、怒りが頂点に達して疲れると「もう孤児院に電話する。迎えの車がくるから準備しておきなさい!」と怒った。ご丁寧にどこか(こじいん)に電話する素振りまで見せて「いま電話したから」と言った。

私はというと、もう半分パニックである。
でも泣き喚くとまた怒られるのはわかっているから、もうただただ悲しくて涙をボロボロ落としながらリュックに「こじいん」で生活するための準備をした。
小さく嗚咽しながら、涙でにじんだ視界で。

それで、そのリュックを抱えて暗い部屋の窓を見つめながらひたすらひとりで泣いた。そして迎えの車を待った。楽しかったことを思い出しながら。30年ほど経った今でも、そのとき見ていた家の前の公園や、夜の町の景色を覚えている。よほど強烈なのだろう。

母はだいたいこのタイミングで、「今こじいんから連絡がきて、今日はこれなくなったって」と言った。この怒られ方をしたのは3回くらいだったと思う。

家の中で絶対的な存在の母が、私のことをいらないと言った瞬間、そして捨てることを公言された瞬間の絶望感。たくさん怒られてつらかったけど楽しい思い出を必死に思い出してすがる気持ち。
我ながら心がきゅぅっと痛くなる。

リュックを抱えて、ぽろぽろ泣きながら窓の外をみていた当時の小さい私を、抱きしめてあげたい。


※おかげさまでその後、さくっと初家出するような娘に育ちます。(別のnote記事にて公開中)

※よく「橋の下で拾った」話があるけれど、それの我が家バージョンというかいや本当に悲しかった。

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