不安定なメンタルの中、いやなタイミングで母親から立て続けに連絡がきてさらに揺さぶられる豆腐メンタル。 「母のもとに生まれて辛かった?」 「時間を戻せるならもういちどあなたを幸せに育てたい」 「良い母親じゃなくてごめんね」 毒親をもった人のエッセイ集を以前読んだとき、自分の親が毒親だとわかりながら期待して振り回されてしまうのは、いつか「ごめん」「ありがとう」という言葉が聞きたいからなのだと多くの人の振り返りの中に書いてあった。 私は知っている。 たぶん母は私から「そん
もうすぐセンター試験。 大学入試で思い出すのは、1大学しか受けてはいけないという謎のルール。 理由は受験料が高いからだった。 受けさせてもらえるだけマシだし、その気になれば受験料くらい自分でバイトして稼げばよかったのだから、反抗したり文句を言ったりはしなかった。 素直に1大学にしぼって受けたのは、私の意思だ。 親は悪くない。 ただ今思うと、どうしてそういうやり方で子どもの将来を制限してしまうんだろうという疑問が消えない。 これは客観的にみてだけど、親が私にそうしたのは経
母子家庭での子育てが、母にとってつらくてつらくてしょうがなかったんだと子どもながらに知っていた。 母が実家を出たのも結婚したのも半ば祖母(母の母)はのあてつけで、後先考えない行動だったということは、親戚からも聞いて知っている。 母は結婚して、私を産んで、離婚した。 最初は「お父さんは交通事故で死んだ」と聞かされていた。いたんだけど、不慮の事故だったと。 でも小学校に上がったころから、本当は父は生きていて、牢屋にいるんだと聞かされた。
普通の家庭では、どれくらい頬をはたかれるんだろ。 頭をぺしっとはたかれることはよくあると聞くけれど、その頻度や重さはきっと家庭によりけりだろう。 私の感覚では、うちはよくはたかれる家だった。 少なくとも私は小さい頃、ビンタやゲンコツをされない日はなかったと記憶している。あと、めちゃくちゃつねられた。つねられるのはすごく痛いんだ。 とにかく、大なり小なり毎日よく痛い思いをした。 中にはピアノの重い蓋を手の上で閉められたり、母が怒って投げた空き缶が私の目に直撃してまぶたが切れ
貧困な母子家庭で育ったけれど、母は私に習い事をさせてくれた。逆にいえば、習い事が家計を圧迫していた。私はよく「あんたのせいでうちはお金がない」と怒られた。(じゃあよろこんでピアノをやめるのに)ってよく心の中で思ったっけ。 スイミング(半年だけ) 公文式(3年くらい) 絵画教室(一瞬) サッカー(2年間) いちばん長かったのはピアノで、10年弱。埼玉のピアノコンクールに出場したりヤマハの専門科に合格したこともあったけど、専門科は送り迎えが大変ということでやめることになった。
うちはつぎはぎ家族だ。 母と私。 再婚してできた父。 父の連れ子の弟と妹。 母と再婚した父とのあいだに生まれた妹。 私は戸籍上、この家の「養子」らしい。 だからだろうか。 新しい父は私のことが嫌いだった。 最初から嫌われているとわかっていたけれど、なついてみせたりして何とかならないかなと試行錯誤した。 もしかしたら向こうも同じだったのかもしれないけれど、少なくとも私は嫌っていなかった、最初は。 つぎはぎ家族が始まってすぐのころ、私はよいお姉さんを演じたしよい娘も演じ
私は、それはそれは怒られる子どもだった。 もちろん私が悪いこともたくさんあったと思うんだけど、母の八つ当たりや支配欲が大きかったことは間違いがない、と客観的に感じている。 うちは私が小学校高学年になるまで母子家庭だったし、母は貧しい母子家庭の大黒柱としてはひどく不安定で、仕方がなかったと思うことにしている。 悲しかったことに「こじいん」の思い出がある。 「こじいん」とは孤児院のことである。 当時の私(たぶん本当に小さかった)が正しくその漢字に変換して理解していたかはわから
年始の楽しみといえばお年玉。 たくさんではなかったけれど、親戚のおじさん、おばさん、祖父母、ばあちゃんのお店の人、自分に対して包んでもらえるお年玉は、うれしいものだった。 冬休みが終わり3学期が始まると、クラスでは「お年玉でなにを買ったか」っていう話で盛り上がる。 スーパーファミコンやゲームのソフトなんかが人気だった。なかには自分名義の口座に貯金して管理しているという子もいて、ひどく大人びて見えた。 お年玉はもらうまでがうれしいイベントで、当たり前のように私のところには1
「人が嫌がることをしてはいけません」という教えは、どこにでも通用する至言だと思う。 ただ、違う環境で育ってきた者どうしだもんだからどうしてもコミュニケーションには摩擦があって、あなたは相手や他人に怒りを感じることがあるでしょう。 怒りを伝えるのはいいと思う。 そして、もし相手に謝罪の意思があったなら、できることなら許してあげてほしいと思う。 「怒る」だとか「許す」だとか、どうも人間の上下関係が垣間見えて嫌なことではあるけれど。 かくいう私は、相手を許すことが未だに苦手だ
「もうこの家から出て行け!」 それは日曜日の朝だった。 保育園児だった私は4歳か5歳くらいだったと思う。 その日たしか出かける用事があって、母は服を着たり準備していた。私は母の準備を待っている間、床にレゴかなんかを広げて遊んでいた。 住まいは狭い団地。 焦って支度していた母は、私の遊んでいたレゴを踏んづけてしまって、それが相当痛かったんだと思う。 それで冒頭の「出て行け!」 母と私の2人暮らしだった頃、家ではそれはもうよく怒られていた。本当にたくさん怒られた。 だか
母は多感な少女みたいな人だ。 いくら時間が経っても、自分の子どもがどれだけ成長しても、母は変わらずに少女のまま。 まるで変わっていくことを拒んでいるように。 「お母さんって子どもみたい」っていうのは、実は小学生の頃から感じていた。母子家庭で厳しく育てられたけど、弱くて乙女な母がひとりで働いて子育てするなんて、子ども心に無理だと思った。 少女らしさは、恋愛にもあらわれていた。 さみしさからいつも母には恋人がいて、そのたびに「新しいお父さんだよ」って紹介された。 清水さん、金
表題は、noteをはじめてみようと思った理由です。 負の感情にはエネルギーがありすぎる。 「さみしい」ひとつをとっても、「つらい」という感情も、バリエーションゆたかにいくらでも言えた。 私は今現在、30代半ば。 中学生のときにインターネットをはじめて、 高校生ときにはいくつもHPをつくったりした。 結局、何のコンテンツも持たない高校生が発信することといったら日記でしかなくて、当時はまわりの友達も名刺がわりのように自分のHPを持っていて、学校で会うのにわざわざBBSでや
小学校の冬休みで思い出すのは、文字書きの地獄の特訓。年賀状書きと、冬休みの宿題だったお習字と、とにかく文字をきれいに書くっていう練習を毎日何時間もさせられていた。 母は字がものすごくきれいで整っている。 祖母も習字を教えていたらしい。 私は習字は習っていなかったけれど、かわりに小さい頃から母のスパルタレッスンを受けていた。 年賀状はほんとうに地獄だった。 一字を、チラシのウラがいっぱいになるまで何度も何度も書かされる。一枚一枚宛名と自分の住所・名前を書かないといけないから
小さい頃、クリスマスの時期になると母が銀座のサンリオショップに連れて行ってくれた。今はなき店舗でなんだけどお店の中はそれはそれは夢の世界で(店内にメリーゴーランドがあった)、何も買ってもらえないけどその時間と空間が大好きだった。 母の機嫌がいいときは、たまに「いちご新聞」を買ってもらえた。すごくうれしかった。 クリスマスの銀座は賑やかで華やかで、「特別な日なんだ」と子ども心にときめいてたのを覚えている。 だからこそ、家に帰ると落差に落ち込むんだよね。 クリスマスは、なん
これ、生きていく上でわりと大切な能力です。 しかも汎用性が高くて応用が効くときた。 自分を大切にすることが基礎能力として備わっている人は回復力があるしほんとうに困難に強いなぁと、身近な人たちを見てきて実感したので書いてみます。 たとえば、風邪を引いたらよく休むこと。 滋養のあるものを食べること。 病院に行って症状を伝えること。薬を飲むこと。 たとえば、肌に湿疹ができたら軟膏を塗ること。 皮膚科にかかること。 たとえば、歯の定期検診にいくこと。 クリーニングをしてもら
私は今、誰からもしあわせな気持ちを阻害されることなく満たされている。昔の自分が知ったら、うれしくて信じられなくて泣いてしまうだろう。 しあわせだなーと思った瞬間、地獄に落とされるような幼少期だった。 ピアノをがんばって、やっと買ってもらえたサリーちゃんのステッキを大事にしていたんだけど、私が大事にしていたからこそ母は怒ったとき、まっさきにそれを折った。 絵を描くのが好きで、我ながらよく描けた絵をスケッチブックから切り離して大事に取っておいたんだけど、なぜか母にバレてい