ひとときのありふれた日常、愛おしく輝き
短い時間の長い瞬間
25[ひとときのありふれた日常、愛おしく輝き]
朝食の準備は剣志と綾乃とで交代でやることになっていた。
朝食担当じゃない方は美佳の着替えや保育園を準備をすることになっていて、今日は綾乃が美佳担当で剣志が朝食担当の日だった。朝食といってもトーストを焼いてコーヒーを淹れて昨夜のうちに作っておいたサラダとカップに入ったヨーグルトとバナナを出すだけの簡単なものだ。それに比べて美佳の世話は大変だ。子供はひとときもじっとしてなくて朝から元気に部屋の中を走り回っている。やっと洋服に着替えさせて食卓につかせる。
「ほらっ美佳ちゃん、早く食べないと保育園に遅れますよ」
「は〜い」返事だけは明るく応える美佳だったが、テレビに映し出されているキャラクターから目が離せない。
「まったく美佳ときたら……」と剣志は言うが、そんな困りごとも嬉しいことだった。もっと反抗期みたいなものがあるのかと思っていたが、今のところそういう気配はなく明るく子供らしく毎日を過ごしているように見える。
綾乃も同じで「もう、美佳ちゃんったら」と言いながら嬉しそうな顔をしている。
いつもは綾乃と美佳の方が先に出かけるのだが、今日は朝イチで会議があって資料を準備しなきゃいけないとかで剣志がいつもより40分ほど早く家を出た。
「パパ、行ってらっしゃい」と言う美佳の声に、満面の笑みで「行ってきま〜す」と言って剣志が出勤して行った。
綾乃は時々、今頃美涼さんはどうしているのだろうと思うこともあるが、どこからも何の連絡もない。連絡がないということはまだ何も進展していないということなのだろうと思っていた。
美涼さんが健康な精神状態なら会っていろいろ話したいこともあるし、話さなきゃいけないこともある。剣志のことも美佳ちゃんのことも。
でもそう思う心の片隅に、今は私たちの生活をそっとしておいてほしいという願いがあることも事実だった。
*
美佳を保育園に送って、綾乃は仕事に向かった。
菜津が入院していた病院に行くのは久しぶりだった。
今日はまた新しい患者さんと面談がある。
初めての人と会う時はとても不安がよぎる。長い間この仕事をしていてもその不安は変わることなく存在する。
綾乃は病院に向かう電車の中で、菜津のことを茂木医師と斉藤医師に伝えた時のことを思い出していた。
「簡単に『はいそうですか』と言える立場じゃないけど、菜津さんの意志は尊重するべきだと思う。若いから頑張ってほしいという思いもあるけど、若いから自分のやりたいことを貫いてほしいという思いもある。基本的には応援したいと思う」と、斉藤医師は言った。
「いつそう言い出すかと思っていたよ。医師としてなら『もう少し頑張って治療を続けようよ』と言うのが普通だろうが、知人としてなら『最後くらい思いっきり我がまま言ってもいいよ』と言ってやるよ」と、茂木医師は言った。
綾乃はいつもクールな茂木医師のうちに秘めた優しさを見たような気がした。そして、ふたりの医師が比較的に若い医師で良かったと思った。年配の医師はなかなかこういうことを認めたがらない人が多い。中には「俺の治療がダメだって言うのか」と、怒る医師がいるくらいだ。
それからは綾乃と斉藤医師と茂木医師とで菜津の退院に向けて全力を尽くしてきた。
その努力は菜津にも伝わったらしく、退院の時の菜津は小さな少女に戻ったかのように泣きながら「ほんとうに、ありがとうございました。先生たちのおかげで自分らしく最後を迎えられそうです」と、言って泣きながら頭を下げていた。
斉藤医師は、菜津の両親の説得にも力を貸してくれた。医師としての意見、同性としての意見、同じ人間としての意見を正直にご両親に伝えていた。
菜津は今頃旅先で何をしているのだろうか…と、ふと思う。
そうだ、駅に着いたら電話してみようと綾乃は少しウキウキした気分でドアの窓から見える晴れ渡った気持ちのいい空を見上げた。
通勤時間を過ぎたといえ、駅は混み合っていた。
人通りの少ない場所に移動して、菜津に電話をした。
体調を聞くのが目的だったけど、友達同士のような他愛ない話を2〜3交わした。思ったより元気そうで安心した。電話を切って画面を見ると10:55の表示が出ていた。
予定より少し遅れ気味だ。急がないとと思い、スマホをバックにしまって小走りで病院の方へ向かった。
病院のエレベーターの前で斉藤医師に会った。
「お疲れさま」
「またお世話になります。あっ、さっき菜津さんに電話したら元気そうでした。海岸を優雅に散歩してるみたいですよ」
「そう?それは良かった。いい旅になるといいね」
そう言うと、斉藤医師は消化器内科の外来のあるフロアーに消えていった。
綾乃は「よし!」と自分に言い聞かせ、気持ちを切り替えて初めて会う患者さんの病室のドアをノックした。
「どうぞ」という若い男性の声が聞こえてきた。
つづく
*1話から25話までマガジン『noteは小説より奇なり』に集録済。