ゆっくりと 正しく過ぎる 老境の刻
2021.11.13(土曜日) so impressed
千葉県産みかんがやってきた。
千葉に住む友人から庭で採れたみかんが届いた。家庭菜園などではなく「庭」というのがいつもながらびっくりする。どれだけ広い庭なんだろうか。毎年この時期になるとみかんが段ボール一箱分送られてくる。そのおかげでみかんを店で買うことはほとんどない。無農薬で自然のままのみかんは自然の味がする。私は庭を持ってないこともあるが、家庭菜園などまったく興味がないのでこの友人などの話を聞くと「へぇ〜」「うわっ」と驚いてばかりいる。この人は他に庭で水菜、ブルーベリー、フェイジョアなども作っていて、それも時々送ってくれる。すべて庭作である。
お返しに何か送ろうと思うが、私は手作りのものって何も作れないからどこかで美味しいお菓子でも買ってきて送ろうと思う。何にするか考え中。誰かにプレゼントをする時に「何がいいかなぁ」と考えるのはすごく好き。
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お昼前にクリーニング屋に出かける。行く途中でパン屋のショーケースをチラッと見たら「さつま芋のデニッシュ」があった。デニッシュの上に輪切りのさつま芋が重ねてのっけてあるようだ。食べてみたいと思ったけど洗濯物をたくさん持ってたので帰りにしようと思って通り過ぎた。洗濯物を出して身軽になってまたそのパン屋の前を通ったら、さっきあったはずのさつま芋のデニッシュがなくて、売れちゃったのかなと思ってがっかり。でも念のためと思って店員さんに「さっきここにあったさつま芋のデニッシュはもうないの?」と聞いてみたら「まだありますよ」と奥から出してきてくれた。2個買って帰る。1個だけ食べるつもりだったけどあまりに美味しくて2個とも食べた。おいしかった。
先日、瀬戸内寂聴さんが天に召された。瀬戸内寂聴さんがまだ瀬戸内晴美だった頃の本で「かの子繚乱」がある。岡本太郎の母である岡本かの子の激しい人生を描いた作品だった。私は若い頃、友人からその本を勧められて読んでものすごく感動した。1週間寝込むほどの感動だった。そこから私の考えや行動、あるいは生死間までかなり変わってしまった作品だった。瀬戸内寂聴さんの死であの当時のことが再び思い出された次第だ。その当時のことを思い出しているうちに、最近、びっくりするほどの感激や感動が少なくなったと改めて感じた。それは私がそう感じるようなことをやってないからか、それともどんなことが起こってもちょっとやそっとでは感動しないようになってしまったのか、いずれにしろ若い時ほど心が動じなくなった。それは年を重ねればある程度仕方のないことなのだろうが、ちょっと寂しいと思う。でも感動するためにわざわざ何かのアクションを起こすということも違うような気がしている。あの時、友人が何気なく勧めてくれた本が「かの子繚乱」だったように、偶然にそういう出来事に巡り合うことを待とう。それまで静かに落ち着いて生きていこう。巡り合い...死ぬまでにあと何回あるだろう。そんなことを考える午後だった。