さまよう手、春の終わりに。
短い時間の長い瞬間
22話[さまよう手、春の終わりに。]
美涼はバッグの中に手を突っ込み、幾重にもビニールで巻かれセロテープで頑丈に封をされた物を探していた。
化粧ポーチの下にあるそれを探し当てると、ものすごいスピードでそれを取り出しビニールを剥がし始めた。バッグから手を抜いた瞬間にティッシュペーパーやマスクの束や店に出る時に使う派手なイヤリングなどが一緒に飛び出してベッドの上に散乱した。
禁断症状という言葉は美涼も知ってはいたが、そんなものはちょっと我慢すれば克服できることだと思っていた。現に博多駅では我慢できたではないか。でも、今朝はいつもと様子が違う。
「我慢できない。我慢すると今の私は何をしでかすかわからない。今日は美佳を迎えに行くつもりではないか。ちゃんとしなきゃ、平静に戻って爽やかな笑顔で美佳の前に立ちたい」そう心の中で唱えながら、白い粉を見つめていた。
20分後、美涼はシャワーを浴びて化粧をし始めていた。
鏡の中の自分に向かって「楽勝…」と呟く。
元気すぎるほど元気になり、食欲も出てきた。
昨日から今朝のことなどすっかり忘れたかように、服を着てバッグを持ちロビーに降りていった。ホテルの中にあるカフェに入り宿泊料金に含まれているモーニングセットを食べた。コーヒーのお代わりまでした。気分は爽快だった。何の不安もなかった。頭の中には美佳と対面して「美佳」「ママ」と抱き合うシーンを想像して笑みさえこぼれていた。
チェックアウトのためにフロントに行く。
昨日、受付にいたスタッフは入れ替わっていて誰も美涼に変な目を向けるスタッフはいなかった。
「ありがとうございました。またどうぞご利用くださいませ」と、スタッフの声が響き、美涼は東京の街に出て行った。
*
タクシーの運転手に、以前剣志と生活していたマンションの住所を告げてマンションの前で降りた。マンションを取り囲む景色はあの時と何ら変わりがなく存在していて、急に懐かしさが込み上げてきた。マンションの向かいには小さな児童公園があって、そこで剣志と美佳と3人でよく遊んだ。桜の季節にはママ友たちとお弁当を持ち寄ってそこで花見をしたこともある。その公園を少し行ったところにファミリーレストランがあって、そこにも親子3人でよく出かけたことなどを思い出していた。
マンションのインターフォンで部屋番号を押す。応答がない。もう一度押す。応答がない。
「もう出かけたのだろうか、そんなはずはない剣志の会社は10時開始だ。まだ1時間以上あるではないか。居留守を使っているのかもしれない」
そう思うと美涼は何度も何度も部屋番号を押して何度も何度も呼び出しボタンを押す。
数回それを繰り返したところで、自動ドアが開いて中から住人らしき人物が出てきた。
その人物は美涼を見るなり「あっ、高東さん…」と、言ってすぐに「美涼さん」と言い直した。
「あら〜、松尾さん久しぶりです」と、美涼は続ける。
松尾美智子は美涼と同じ年の子供を持つここの住人で、ママ友仲間のひとりだった。
「元気?」
「元気だよ」
「今日はどうしたの?」
「美佳をね元旦那のとこで預かってもらっていてね、今日は迎えにきたの」
「えっ?」
「でももう出かけたみたいで誰も出ないのよ」
「あぁ…知らないの?高東さんなら引っ越したよ」
「えっ!」
「美佳ちゃんと一緒に住むんだとか言って、お世話になりましたって挨拶にいらっしゃったから…」
「どこに?ねぇ、どこ?住所教えて」
「そこまでは知らないわ。文京区の方とか言ってらしたけど」
「馬鹿にしやがって、クソ野郎」
美涼は誰に言うでもなく汚い言葉を吐いた。
松尾美智子はその言葉の強さに驚いた。きっと何が事情があることを察知して余計なことに巻き込まれたくない思いで「じゃ、またね。私ちょっと急ぐから」と逃げるようにその場を後にした。
美涼はぼうぜんとインターフォンの前で立ち続けた。
「引っ越した。美佳を無理矢理奪って、引っ越した。あのクソ野郎」独り言のように美涼は呟く。
文京区中探すのは不可能だ。実家に聞けば何かわかるかもしれないと思ったが、実家にはもう警察が踏み込んでいるかもしれない。あの男が乗り込んできているかもしれない。そう思うと電話することができなかった。
「剣志の会社に行ってみようか、会社を辞めていなければ会えるはずだ。いや、ひょっとしたら剣志のところにも警察が張ってるかもしれない。警察に捕まるのは嫌だ、捕まったら美佳と暮らせない。じゃ、どうすればいい、どうすればいいの」と、自問自答しながらあてもなくまた東京の街へ出て行った。
気がつけば、以前バイトしていた居酒屋の近くにいた。
見慣れた店構えを見てまた懐かしさが込み上げてくる。
誰か知ってる人がいないかと開け放たれた引き戸の中を覗いてみる。知らない若い男性が店内の掃除をしている。厨房では仕込みだろうか、忙しそうに動き回る人影が見える。
突然、後ろから声がかかった。
「あれっ、美涼ちゃんじゃない」
美涼が振り返ると居酒屋の店長が立っていた。
「やっぱり美涼ちゃんだぁ。どうした、誰かに用か?」
「店長、お久しぶりです」
「そうだよ、やめてから何の音沙汰もないからさ、どうしてるのかと思ってたよ。それで今日はどうしたの?」
「ちょっと近くまで来たもんだから懐かしくなって、誰か知ってる人いるかなと思って……」
「まっ、入んなよ。お茶くらい出すからさ」
美涼は店長の後に付いて店内に入って行った。
厨房で仕込みをしている男性をチラッと見たが知らない人だった。
店の奥にある休憩室で、店長は冷蔵庫からペットボトルの茶を出して美涼の前に置いた。
「店、変わんないでしょ」
「店は変わんないけど、知らない人ばかり」
「そりゃそうだよ、こういう業界は出入りが激しいから。それはそうと、今どうしてんの?」
「九州の実家で退屈な生活してますよ」
「そうか、そういや子供いたよな。なんつったけ?女の子がさ」
「美佳です」
「元気にしてるのか?」
「まぁなんとか……」
店長は美涼の顔が曇るのを見逃さなかった。
そして、ペットボトルを持つ美涼の手が微かに震えているのも見逃さなかった。よく見ると顔に汗もかいている。
「どうした。体調悪いのか?」
「いやぁ、久しぶりの東京で緊張してるのかも」
と、笑って誤魔化そうとするが、海千山千の男にそんな誤魔化しが通用するわけもない。
「何か訳があるなら聞くよ」
「なんでもないんですってばぁ。私そろそろ行かなきゃ。お茶ごちそうさまでした」
と、立ち上がって「美涼ちゃん、ちょっと待って」という店長の言葉が響く中、美涼は振り向きもせず店の外に飛び出して行った。
あてのない放浪がまた始まった。
陽が高くなった。
まだ5月だというのに、背中に夏のような太陽の熱を感じる。
このとき、美涼は朝なのか昼なのかさえ把握できなくなっていた。
震える手でスマホを取り出して画面を見る。たくさんの着信を知らせるアイコンに混じって浮かび上がってきた数字は『10:13』だった。
美涼は疲れていた。
もう歩くのも考えるのも嫌だった。
ゆっくり眠ってしまいたかった。
つづく
*1話から22話までマガジン『noteは小説より奇なり』に集録済。