【essay】永遠を求めない、スープの話
あれは、2024年があけてまだ1週間も経たない時だった。
宅配便で身に覚えのない荷物が届けられて、中身を確認してみると
『おめでとうございます。当選したました』という印刷された挨拶文とともにスープメーカーが入っていた。
その挨拶文を読んでみると、私は半年くらい前に、よく覚えていないが雑誌のプレゼントキャンペーンに応募していたらしく、それの3等が当たったらしい。それがスープメーカーだった。
さて1等は何だったのか気になるところだが、そのスープメーカーは、あれから数ヶ月、箱に入れたままキッチンの戸棚にしまってあった。
欲しかったアイテムではないのであろう。わぁ嬉しいという感情もないままであった。
使わないならメルカリなどで売ればよかったのだろうが、私はメルカリはやらないし、これからやるつもりもないので、これのために会員登録したり写真を撮ってサイトに載せたりするのはめんどくさいとそのままにしておいたのだ。
すっかりそのことを忘れていたのだが、先日、戸棚の整理をしてた時に箱に入ったままのそれを見つけて、とりあえず箱から出してみようと思い、おずおずと出してみた。説明書なんかを読んでみると、『いとも簡単に美味しいスープが出来上がる!』というふうなことが書いてある。
私はスープは嫌いじゃないのだ。というか、どちらかと言えば好きなのだ。
ただ夫があまりスープを飲むという習慣がないため、今までスープといえば、味噌汁かすまし汁くらいしか作ってこなかった。
『いとも簡単』なら自分の分だけでも作ればいいか、作ってみようか...という気持ちになった。
材料を入れてスイッチを入れると出来上がるという簡単さで日替わりで色々作ってみた。それなりに鍋で作るとめんどくさいスープでも本当にいとも簡単にできた。しかもなかなか美味しかった。毎朝スープとパンとサラダとコーヒーという、インスタグラムなどで幅をきかせているお洒落女子みたいな朝ごはんを食べているのだが、だんだん既存のスープじゃもの足らず、本屋でスープのレシピ本を買ってきて、「これ美味しそう」というのをどんどん作っているのだが、中にはスープメーカーでは作れないような、絶対鍋が必要だよこれ…というのが出てきて鍋でことことスープを作ったりしている。
そんな自分に、「なんてこった、こんなにハマるなんて」と嬉しい悲鳴というと大袈裟だが、嬉しいのか忙しくて嫌なのかわからない感情に陥っている。
今ではもうスープメーカーと鍋を半々の割合で使っている。
スーパーで安い野菜などを買ってきては、せっせと日替わりスープ作りは続いている。
「梅干しとわかめのスープ」「クラムチャウダー」「長芋のスープ」とかの定番なものから、ハンガリーの「グヤーシュ」とか台湾の「シェントウジャン」いう変わり種もなんのそのだ。
しかし、今までも私の性格からしていつかこれも飽きるのだ。
今まで、大根おろしを毎日食べようと思って、電動大根おろし器を買ったり、毎朝スムージーを作ろうとミキサーを買ったりしたのだが、飽きた。
電動大根おろし器もミキサーも今は「どこにしまったんだっけ?」というほど忘れ去られている。
飽きないで続いているのは、土鍋でのご飯炊きくらいだ。
だからこのスープ作りもいつか飽きる。
そういえば、昨年末は鍋料理にハマっていたな...と、遠い目で思い出してみたりもする。
飽きるのは人間の感情のひとつだから悪いこととは思わないが、きっとどこかの隅で埃をかぶっている電動大根おろし器とミキサーには多少の心残りや申し訳なさもある。
でもまぁ今回は、向こうからひょいひょいと勝手にやってきたのだ。飽きても心残りを感じる必要はないような気がしている。
どんどん使って飽きたらとっととやめよう。
でも、こんな軽い気持ちでやったことの方が長続きしているという事実も私の中であるにはある。
ひょっとしたら死ぬ間際までスープ作りをしているかもしれない。
明日飽きてやめてしまうかもしれない...。
どちらにしても永遠はない。