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かつて板上で泣いた日、今夜も変わらぬ目で泣く。

今、真夜中の1時半を回ったところ。眠りたいのに眠れない。芝居を観た夜はいつもそうだ。それは若い時から変わらない。人の芝居というのは自分がやる芝居よりも脳が興奮してしまうらしい。数時間前まで客席の喧騒の中にいて、役者と同じくらいのテンションで、笑い、泣き、考え、台詞ひとつひとつを噛み砕いていく。そんな作業を無意識にしているのだから寝れないのも当然と言えば当然なのだけど。

設立当初から愛してやまない大人計画の芝居『フリムンシスターズ』を観てきた。コロナ禍で観るはずだった数多くの作品が中止となってやっと生で観に行けたという...脳の興奮が治らないのはそのせいもあるかもしれない。芝居に対して私の脳は欲求不満気味であったのは間違いない。内容についてはこれから観に行く方のために書かないでおくが、大人計画の芝居は社会の闇やタブー視されている問題の傷口をこじ開け、そこに塩を吹きかける感覚で表沙汰にしていく。その中に所々クッション材としての笑いもちゃんと折り込まれているからドキドキするだけじゃなく神経の弛緩作用もちゃんとある。でも綺麗ごとでは絶対に済まさないその感覚は健在であった。

ずっと笑いながら観た芝居の最後の方でこんな台詞があった。

間違った支配にヘラヘラ笑って自由を差し出すのはうんざりだ

この台詞を聞いた途端に涙がとまらなくなった。

ここからは持論だが、数時間の作品の中には必ずその芝居を決定づける台詞みたいなものがあって、観客はそれを聞くために劇場に足を運び、役者はそれをカッコよく言うために日々稽古に励んでいる。この芝居でのその台詞はこれだったのではないかと思う。この台詞を言うのは長澤まさみさんなのだが、その彼女自体もとてもカッコよかった。いい芝居を観ると、なんで私は観る側で出る側ではないのだろうと歯痒さを感じることがあるが、今回の芝居に対してもそう思った。久しぶりに板上に立ちたい気持ちにさせられた。

私は役者をやめてから何年経つのだろう?もう数えるのもめんどくさいくらいの年月が流れた。今ほどの芝居に対する情熱があの若き日にあれば、もっと違った道があったかもしれない。いや、たらればの話はやめよう。人間の人生は今がすべてだ。過去は確かに実在したけれど、昨日でもなく明日でもなく生きているのは今なのだ。今何ができるかが人生なのだ。なんだかんだと言い尽しても、それでも芝居に関わることはやめられそうにない。どんどんできる範囲で関わって、これからも脳みそが興奮して眠れない夜をたくさん迎えたいと思う。

振り返れば、私にも過去があった。

振り返っても、成長してないな、私の芝居談義。

世がふけるごとに、板上への思いはつのる。


少しだけネタバレ↓

“フリムン”とは、沖縄の方言で“気がふれる”とか“狂ったような”とか“バカ”を意味する言葉。故郷・沖縄での過去を捨て、東京は西新宿のコンビニで住み込みのバイトをしながら無気力に暮らす女<ちひろ>。実は沖縄のユタの血筋で不可思議な能力を持つ彼女が、昔から憧れていたかつての大女優<みつ子>と出会ったことから、その親友でゲイの自称「2億円のオカマ」<ヒデヨシ>も巻き込んで、コンビニにかかわる人々や新宿二丁目界隈の人々をも巻き込んで、物語を展開させていきます。歌って踊って、その上何故か戦うことにもなってしまう、さまざまなお楽しみが盛りだくさんの壮大なスペクタクルにして一大エンターテインメントです。(作品特集記事より)


読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。