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浅はかな習慣に溺れる虚栄心

今、私は絵画3作品を前にして、どうすべきか途方に暮れている。これらには何の罪もない。でもこれらが邪魔で邪魔でしょうがない。

「いい人」っていう定義はわりと分かりづらい。いい人は私の周りにもたくさんいるし、街中でもいい人を見かけたりすることがある。困っている人に躊躇なく手を差し伸べ、何かを頼んでも嫌な顔もせず引き受けてくれる。それで救われる人がいるのも確かなのだけど...。私自身もたぶん「いい人」だと思われる。「思われる」というのは本当の意味でいい人ではないからだ。

私はいろんな人にいい顔をしてきたように思う。あまり興味がないことにも興味があるようなふりをしてその人に接する。するとその人はそのままそれを疑うこともせず素直に受け取ってしまう。その結果、後になって私が困ってしまうことになる。我が家には頂き物の絵画が3点ある。どれも立派な額縁に入れられた絵画だ。理由はわからないのだけど私の知人には絵描きさんが多い。よくその方々の個展などに招待頂いて出かけるのだけど、その絵が好きかどうかには関わらず招待されたら行くのが礼儀みたいに思っていて、ちょっとめんどくさいなと思っていても行ってしまう。そこに本人がいない場合は一通り見て帰ってくるのだけど、本人がいる場合は、作品の説明などをして下さって、こちらもそれなりの感想などを述べるのだけど、あまり好きではくてもうまくそれを伝えられない。「素敵でね」とか「色使いが絶妙」とか「作者の気持ちがとても表現されている」とか、褒め言葉を並べてしまう私がいる。作者も貶されるより褒められる方が嬉しいに決まっていると自分に言い聞かせて、後になって罪悪感が残ることになる。

そんなことを繰り返していると、誕生日とか何かの記念日とかにその方々から立派な額縁に入った絵画がプレゼントとして送られてきたりする。そこではたと気付くのだ。私の社交辞令が過ぎたのだと...飾ることのないその絵画たちをクローゼットの中に仕舞い込む。クローゼットを開けるたびに「はぁ〜どうしよう」と、ため息が出る。

絵画だけじゃない。古い友人から毎年送られてくる手作り味噌や漬物。自分の庭で採れた野菜や果物...私の伝え方が下手なの相手も受け取り方が下手なのかわからないが、私はいい人でありたいという気持ちが常にあって、それが習慣となり、会う人会う人に相手を喜ばせるという大義名分を引っ提げ、心にもない褒め言葉を言ってしまう。それは決して相手のためではない。「イトカズさんっていい人」と思われたいだけなのだと思う。

じゃ、これからはどうする?

興味のないことは安易に褒めない?

嫌われることを恐れない?

それができる?

ラ・ロシュフコーの箴言集の最初にこんな言葉がある。

我々の美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない

私のことだ。たぶんね...

ずいぶん前に「いい人をやめると楽になる」という本を読んだことがある。曽野綾子さんの本だった。内容は詳しく覚えていないが、結論として「いい人はいい人をやめることができない。」というふうなことだったように記憶している。

これもまた事実だ。





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イトカズ
読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。