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短編小説 「八月の呻吟」3

3−3 最終話



高東綾乃は1週間前の昼下がり、娘の美佳を市民プールに連れて行く途中で、橋の真ん中あたりでうずくまって動けないでいる女性に出くわした。
「どうしました、大丈夫ですか?」と、尋ねるとその女性は「ちょっと目眩がして…」と、橋の欄干に手をついて立ち上ろうとしたが力が入らずまたうずくまってしまう。顔を見ると異様な汗をかいているにもかかわらず、顔は血の気が引いたような青い顔をしていた。
「救急車呼びましょうか?それともどなたかに連絡しましょうか?」
「大丈夫です。しばらくしたら落ち着くと思うので」
「お住まいはご近所ですか?」
「橋を渡った角のアパートです」
「だったらそこまで一緒に行きましょうか?少しでも涼しい所に移動した方がいいように思います」
そう言って娘の美佳に荷物を持たせて、綾乃は女性の肩を抱いて立たせて歩き出した。階段はより一層の注意を払いながらゆっくりと上っていく。真ん中の部屋の前で「ここです。もう大丈夫です。ご親切にありがとうございました」と、女性は頭を下げた。「じゃ、気をつけて、お大事に」と言ってその場を離れようとしたが、職業柄、何となく嫌な予感がして名刺入れから自分の名刺を取り出し「私、こういう者です。何かお困りでしたらいつでも電話ください」と言って妙子に名刺を握らせた。
あまり個人的なことに首を突っ込むんじゃないと会社からは言われているが、気になる人がいるとどうしても何か力になってやりたいというお節介が働いてしまう。
「それじゃ」と言って美佳の手を引いて帰ろうとすると、後ろから「あの…ほんとうにご親切にありがとうございました。お礼と言ってはなんですが、お急ぎでなければ冷たいものでも飲んで行かれませんか、お嬢ちゃんも一緒に」と、精一杯の笑顔を作って女性は言った。
綾乃はこのまま帰ってしまうのは心残りだなと思っていたのでそう言ってもらえて好都合だった。「お邪魔してもよろしいのですか?」と恐る恐る聞くと「大丈夫です、私ひとり暮らしなので」と、ドアを開けて「どうぞ」と招き入れてくれた。

キッチンの隅に段ボールがたくさん放置されている。綾乃は引越しの準備でもしているのかなと思う。でも入った瞬間からどこからか漂ってくる変な匂いが気になった。
「すいません、散らかってるでしょ」と言いながら冷蔵庫から麦茶と缶に入ったリンゴジュースを取り出し、それぞれをガラスのコップに注いでいる。
先ほどより女性の顔に赤みがさしてきたのを見た綾乃は少しほっとした。
綾乃が段ボールに目を奪われているのを見た女性は、「それ実家の母がいつも野菜やらお米やら送ってくるんですけどひとりだと食べきれなくて…」
「ご実家はどちらなんですか?」
「山形です。あっ、ご挨拶が遅れちゃって…私、白川妙子といいます」
「高東綾乃です。これは娘の美佳です。山形だったお米や野菜が美味しいんでしょうね」
「野菜はうちで作っている物なので美味しいかどうかわかりませが、お米はつや姫が美味しいですよ。今はこの辺のスーパーにも置いてるからよかったら一度試してみてください」
「さっきのような目眩はよくあるんですか?」
「私にはちょっと持病があって、目眩はその症状のひとつなんです」
「そうなんですか、おひとり暮らしだったら心配ですね」
綾乃は何の病気が聞きたかったが、それはプライバシーに入り込みすぎだと思って自重した。
3人が席についてひと呼吸したところで女性はグラスを両手で包むように持って麦茶を一口飲んだ。そして「どうやら若年性認知症らしいんです」と、妙子は唐突に話し始めた。予想もしていなかった病気の名前に妙子はびっくりして妙子の目を見た。その綾乃の目を真っ直ぐに見据えて、今までの思いが溢れ出したかのように早口で喋り始めた。
この病気のことを知って結婚を約束していた彼氏が出て行ってしまったこと、それからは病院には行ってないこと、徐々に自分の中で空白の時間が増えて昨日のこともさっきのこともわからなくなること、気がつくととんでもない場所に佇んでいる時があること、目眩や鬱状態が頻繁に起こること、不安で不安でしょうがないがどうすることもできないことなどを一気に語った。
「でも安心してください。今はちゃんとしている時間です。でもあなたのことも助けて頂いだことも数時間後には忘れていると思います。ごめんなさい」
「ご実家のご両親には知らせてあるんですか?」
「いいえ」
「余計なお世話かもしれませんが、まずはご両親にお話しした方がいいかと思いますけど」
「もういいんです。若年性認知症ってどんな病気かご存知ですか?この若さでボケちゃうんですよ、老人の認知症より進行スピードが早いんですって。何もかもわからなくなって誰のこともわからなくなって何もできなくなって8年くらいで死んじゃうそうです。話したところで両親に迷惑かけるだけなんで。準ちゃんもそんな私とは結婚できないと思って出て行ったんだと思います」
「準ちゃん?」
「一緒に住んでた彼氏です」
「あぁ…」
綾乃はもちろん若年性認知症については熟知していた。今まで何度かそういう患者さんに接してきたこともある。でもここで専門知識を語って慰めたところでどうにもならないと綾乃は思った。
そこまで話したところで、今までおとなしくジュースを飲んでいた美佳が大人の会話に退屈したようで「お母さん、早くプールに行こ」と言い出した。「あぁごめんね美佳ちゃん、引き止めちゃって」と、笑顔に戻った妙子が美佳に向かって言っている。
「初対面の方に変な話を聞かせてしまってごめんなさい。人と話すのが久しぶりで…いつ以来かと聞かれてもわからないのですが」
「いいえ、話すと楽になることもありますよね、話し相手ならいつでも呼んでください」
「ありがとう」
「ごちそうさまでした」
そんな会話をしながら上がりかまちに座って美佳に靴を履かせていると、その足元に宅配便の送り状のようなものが丸まって落ちているのに気がついた。いけないとわかっていながら見つからないようにそれを拾ってバックに入れた。
その後妙子の部屋を訪ねることはなかったが、アパートの近辺で時々見かける妙子は、綾乃と美佳のことなどすっかり忘れてしまっていた。先日も美佳を連れて橋を渡っている時にアパートの部屋の前にいる妙子を見かけた。妙子も綾乃の方を見たが何の反応も示さなかった。美佳が「こないだのおばちゃんだね」と、言っていたが、その様子は見るからに悪化しているとわかるその表情や動作に、お節介だとか自己満足だとか言われようと、先日玄関先で拾った送り状に書いてあった妙子の実家と思われる番号に電話をかけた。

それから妙子の姿は見ていない。
きっと実家のご両親が迎えにきて適切な場所へと移ったのだろうと思った。
1年ほど経った頃、綾乃のスマホに馴染みのない番号から電話がかかってきた。固定電話からのようで市外局番にピンときて電話に出た。
「もしもし高東です」
「もしもし白川妙子です」
「あっ、こんにちは。お元気ですか?」
「おかげさまで、病気自体は進行していますが穏やかに暮らせてます」
「そうですか、それはよかった」
「でもあと数年らしいです、私の余命」
「年数の問題ではないです。穏やかに過ごすことが大事なんだと思います」
「うちの母に電話をしたのは高東さんだったんですね、最初は準ちゃんが電話したのかと思いましたけど、ありがとう。それだけを伝えたくて」
「お節介が役に立って良かったです。お母様にもよろしくお伝えください」
「はい。この電話のこともすぐに忘れちゃうから約束はできませんけど」
そう言って妙子が電話の向こうで笑っている。
「じゃ、お嬢ちゃんにもよろしく」
「はい、さようなら」

妙子は時々、ぼんやりした記憶の中で綾乃と美佳の顔を思い出す。
その度に「ありがとう」と呟く。
母親の顔も覚えている時は「お母さん、ありがとう」と呟く。
父にも兄弟たちにも「ありがとう」と呟く。
意識が朦朧としている時でも、唇に水を運んできてくれた人に「ありがとう」と呟く
次の瞬間もうすべて消え去るのだけど、妙子は「ありがとう」という言葉は最後まで覚えていた。



亡き友人、白川妙子(仮名)とそのご家族にに捧ぐ。

                   

あとがき
この白川妙子(仮名)は実在の人物です。
2022年7月某日、本文と同名の病により亡くなられました。
私の友人でもありました。
ご家族の了承を得て事実を元に脚色を加えて作品にしました。
読んで頂き感謝致します。
                       イトカズ


1話と2話はこちらから



読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。