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【essay】私は機会があれば飲む。時には機会がなくても飲む


やっとお酒が飲めるのである。
1ヶ月前に喘息の症状が出て、医者から渡されたその薬を飲むためにお酒が禁じられていた。その1ヶ月も過ぎ、喘息の症状も治ったので薬生活にも今日終わりを告げた。
私はアルコール中毒者ではないので、飲むなと言われれば1ヶ月でも2ヶ月でも半年でも飲まないでいることはやぶさかではないが、でも食卓にお酒がないとちと寂しいのだ。
餃子を焼いたらビールが飲みたいし、肉を焼いたら赤ワインの栓を抜きたくなって、パスタを茹でたらスパークリング、美味しい刺身にはぬる燗...などなど。
餃子も肉も、その他もろももろノンアルじゃ味気ない。
いくら『今時のノンアルは美味しい』とテレビCMで流されても、「へぇ〜そうなのかい」と飲んではみるが、味はお酒に近くなったがお酒を飲むということの高揚感は得られることができない。まぁこんな話は元々お酒なんかに興味がない人にとってはどうでもいいことだろうが、酒好きにとっては死活問題なのだ。高揚感それが大事。

夫はお酒は一滴も飲まない。一滴飲むだけでひっくり返ってしまう。
鰻重に添えられている奈良漬で酔っ払ってしまうくらいの人である。
そんな人だから私が至福の顔でお酒を飲むのをいつも不思議な顔で見ている。会社で飲み会がある時など、ウーロン茶で数時間もたせる人である。
昭和の時代はお酒が飲めないと出世できなかった(という噂を聞いた)と言われているが、今の時代はそんなこと言うと大問題で、そのおかげで夫もなんとか会社で生き残っているのだろうと思う。
「飲めると楽しいよ」と夫に言うと「あんたを見てるとそうなんだろうなと思うよ」と言いながらも飲めない自分を特に悔しがってる訳でもないのが、私はちょっと気に入らない。もっと悔しがってほしい。
だが、私はひとり酒が好きだ。自分が好きな銘柄を好きなつまみでやるのが一番至福の時間だ。だから夫が飲めない方がいいのかもと思ったりもする。
一番嫌なのは蘊蓄を語りたがる『〇〇通』と呼ばれる輩で、そんな方々とは距離を置いて一緒には飲まない。
「ここの作り手はね...」などと事前の知識をひけらかす前に、「飲んでゆっくりその蘊蓄を自分の中で噛みしめろ」と言いたくなる。
お酒を飲むのにひけらかし用の蘊蓄はまったくいらない。
『美味しいね』そして『楽しいね』それだけの会話で充分だ。

今夜はずっと静まりかえっっていた、というか静かにさせれていた我が家のワインセラーの扉を開けて、どれにしようかなと選ぶ楽しみとコルクを抜く楽しみと、大事な大事な高揚感を味わいたいと思っている。
酒好き万歳の瞬間である。
小説家にもなり詩人にもなり、単なる酔っ払いにもなって、それから
最高のしたり顔をしてみせるのだ。

  • タイトルの『私は機会があれば飲む。時には機会がなくても飲む』は、
    小説家ミゲル・デ・セルバンテスが残した言葉です。

読んでくださりありがとうございます。





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イトカズ
読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。