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愛のかけらもない、逃避行
短い時間の長い瞬間
19話[愛のかけらもない、逃避行]
美涼は東京行きの新幹線に乗っていた。
あの男がシャワーを浴びている間に、男の財布からあるだけのお金と、カバンの奥底に隠してあった覚醒剤を盗んできた。
少し体が震えるが大丈夫だろう。マスクを着けてこうやって下を向いて眠ったふりをしていれば誰も気づきはしない。東京までは5時間ほどかかる。その間に体にこれ以上の異変が現れたらその時はその時だ。
*
今朝、同居している男から、
「おまえさ、しばらく店には出るな。店の周辺で警察がウロウロしているみたいだ。何か聞き込みをしているらしい。ほれっ、なんてったけ?おまえの昔の友達…えぇっと…マサル、そいつ捕まったってよ」
それを聞いて美涼はドキッとした。マサルが捕まったってことは、マサルがすべて自供すれば私のこともすぐにバレる。マサルは自分が楽になるためだったら友達でも親でも売るような男だ。きっと警察に聞かれる前から私のことなど率先してしゃべっているに違いないと思った。
「どうしたらいい?」
「だから、ここを一歩も出るな。いいな。誰が来てもドアを開けるなよ。俺までとばっちりくらうのは嫌だからな。それからスマホも使うな。今はスマホの位置情報で居場所がわかるらしいから」
美涼は男が風呂場に行ったのを確認してスマホを手に取ってシャワーの音が聞こえたと同時に実家に電話をした。こうなったら早く美佳を迎えに行って美佳とふたりでどこかに逃げなければならないと思った。
電話をすると母が出た。
「お母さん、美佳と代わって、早よ!」
「あんた、今どこにおるとね」
「そげんこつどうでもよか。それより早よ!」
「美佳はもうおらんよ。剣志さんと東京に行ったとよ」
「なんでそげん勝手なことすると」
「勝手なんはあんたの方じゃなかね。みんな知っとるとよ。どこにおるん?迎えに行くけんお母さんと一緒に警察に行こ」
美涼は、母の「警察に行こ」という言葉を聞いて一方的に電話を切った。
「剣志と東京に行った?冗談やなか!」そうひとり言を言うと、あらかじめそうするように決まっていたかのように男のカバンから財布の中のあるだけのお金とカバンの底に隠されていた白い粉の入った小さな包みを自分のショルダーバッグに入れた。
着替えることもせず、普段着のままショルダーバッグを抱えて急いで部屋を出て、歩道をはみ出してタクシーに覆い被さるようにしてタクシーを止めて博多駅まで行った。
駅に着いたところで気分が悪くなりトイレに駆け込んだ。やたらと汗が出て老人のように手が小刻みに震える。ショルダーバッグからポケットティッシュを取り出して吹き出す汗を拭う。マスクの下で深呼吸を繰り返していた。
10分ほどそうしていただろうか、汗が止まり、手の震えもおさまったのを確認してトイレを出て、東京行きのチケットを購入した。念のため窓口には行かず、みどりの券売機で買った。
『10時15分発東京行き のぞみ20号』これで大丈夫だ。これに乗りさえすればすべてうまくいくと美涼は思った。
*
美涼はホームの自販機でミネラルウォーターを買って新幹線に乗り込んだ。
幸いに車内は空いている。隣に座る人もいない。
美涼は動き出した新幹線の窓の外を見ることもなくじっと下を向いて目を閉じていた。しかし、頭の中は嵐のようにさまざまなことが渦巻いていた。
警察、マサル、美佳、剣志、両親……いろんな単語がつぎつぎに現れ、それに対してひとつひとつ整理しようとするがうまくいかない。
時間が経つのが遅い。美涼は少しイライラし始めていた。
チケットに書かれた到着時間を確認する『15時15分』はるか未来を指す時間のように遠く思えた。
また手の震えが出てきた。右手と左手をしっかり絡めて動かないように太ももの間に挟む。それでも小刻みに震える手を完璧に止めることはできない。
「どうしちゃったんだろう私。こんなはずじゃなかったのに。みんなあの田舎のせいだ。田舎に帰ったからマサルみたいな下衆な男に会ってしまった。田舎の束縛から逃れたくてマサルに誘われるまま薬に手を出してしまった。私が悪いわけじゃない。早く美佳に会いたい。今度こそ美佳とふたりで東京で暮らそう。もう絶対に田舎には帰らない」声にならないひとり言を目を閉じたまま呟いていた。
時々、通路を人が通る気配がする。その度にドキッとして肩が固まる。何度も何度もそれを繰り返しながら5時間耐えた。
八重洲中央口を出て立ち止まる。これから自分は何をしなければならないかを考えた。
「そうだ、美佳を剣志のところから連れ戻しにきたんだ。剣志のマンションに行かなければ」そう思ったが、ショーウィンドウに映った自分の姿があまりにみすぼらしいことに気がついた。こんな母親じゃ美佳も嬉しくないだろうと思い、近くにあるビジネスホテルに飛び込んんだ。とにかくシャワーを浴びて化粧をして綺麗な姿になりたかった。
「予約はしていないが、今夜泊まりたい」と言うと、フロント係が少し変な顔をしたが、感染症のおかげで顔の半分以上がマスクで隠れていても不審に思われないことが幸いした。宿泊料金を現金で前払いしたら問題なく部屋のキーをくれた。
部屋の鍵を内側から掛けた途端にベッドに倒れるように横になった。スマホを出してみるとあの男から何度も着信があったようだ。メールも来ている。きっとあの男も実家の両親も今頃大騒ぎしているのだろうと想像するが、もう美涼にとってはそんなことどうでもよかった。シャワーを浴びなきゃという気持ちもあったが、立ち上がる気力がなくそのまま眠ってしまった。
目が覚めた時はもう夜中の1時を回っていた。博多駅で買ったミネラルウォーターをバッグから出して貪るように飲んだ。
窓際に行き、カーテンを開けるとホテルの表通りが見える。
美涼は目を凝らして東京の夜を見つめた。車はこんな時間でも途切れることなく走り、ビルの窓にはぽつぽつと灯がともっている。エネルギーが有り余っている若者グループが楽しげに飛び跳ねながら通って行く。風があるのか街路樹の葉が揺れている。その下をホームレスが何かを探してウロウロしている。
私はこんな東京の何が良くて執着しているのだろうと美涼は思う。東京が特別好きなわけじゃない。あの田舎が嫌いなだけなんだと、何度考えても同じ結論しか見出せなかった。
夜が明けたら美佳を迎えにいこう。
きっと「ママ!」と言って私の胸に飛び込んでくるだろう。
その時の剣志の不甲斐ない顔が見物だ。
そう思いながら、またベッドに潜り込んで眠った。
明け方、激しい体の震えを感じて目を覚ました。
シーツが水を撒いたように濡れている。何も食べてないのに胃の中から何かが口の方に押し寄せてくる。
初めて経験する異変に、美涼はバッグの中に手を突っ込んでいた。
つづく
*1話から19話までマガジン『noteは小説より奇なり』に集録済。
あらすじ
それぞれが何かしらの問題を抱えて生きている複数の男女がいる。まったく違った時間の中で違った価値観で生きているが、それぞれはどこかでちょっとずつすれ違っていく。そのすれ違いは大きな波を呼ぶのか、単なるさざ波のようなものなのか……
病気、薬物中毒、離婚、隣で起こっていても不思議ではない物語は徐々に佳境を迎えつつある。
何も知らぬ者、すべてを知った者、それぞれが少しずつ近寄っていく。
主な登場人物
菜津:東京で働く女性
剣志:東京で働く男性
美涼:剣志の別れた妻
綾乃:剣志の現在の恋人(美涼の高校の後輩でもある)
美佳:剣志と美涼の子供
マサル:美涼の高校の同級生
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