時として正義は滑稽さを増幅させる
狭い道の十字路で、自転車と自転車が軽くぶつかった。ひとりは若い男子で、もうひとりはおじいさんと呼んでもいいくらいの年配の男性だ。私はちょうどぶつかるところに居合わせてすべてを見ていた。結論から言うと悪いのは年配男性だった。若者は十字路の角に差し掛かった時、一時停止して左右を確認してから再度漕ぎ出した。そこにちょっとスピードを出して突進してきた年配男性とぶつかったのだ。双方倒れるほどではなかったが、ガシャッという音が私にも聞こえた。若者は咄嗟に「あっ、すみません」と言った。自分は悪くないけど一応こういう時は流れでどっちが悪とかではなくお互いに「すみません」と言うことがある。お互い「すみません」で終わるのかと私は思っていた。その程度の事故だった。でも年配男性はすみませんの一言もなく文句を言い始めた。
「どこ見て走ってんねん、危ないやないか。年寄り殺す気か!」
私はその声の大きさと言葉の内容にドキッとした。
「僕はちゃんと左右見てたんですけど、突進してきたのはそちらじゃないですか。それに僕はちゃんと『すいません』って謝ったでしょ」と若者が静かに言う。
「これやから若いやつはあかんねん。謝って済むことか」と年配男性がまくし立てる。
途中から見た周りの通行人は、きっと若者がルール違反をして年配男性に怒られてるという構図で見ているだろう。人々の頭の中には「若いやつは礼儀を知らない」「若いやつは自分さえ良ければいいと思っている」「若いやつは年寄りを大事にしない」などのマイナスイメージがインプットされている。でもそれは違う。礼儀を知らなかったり自分勝手な人は年齢に関係なくいる。ちゃんとしている人も年齢に関係なくいる。
散々年配男性にグチュグチュと言われ続けていた若者がたまりかねたのか大きな声で言い返した。
「年寄りだからってすべて許されると思ったら大間違いですよ。なんでもかんでも若者のせいにするのは大間違いです。交通ルールは年齢に関係なく守るべきなんです。私は一時停止しました。あなたはしていません。私はすいませんと謝りました。あなたは謝っていません。これが事実です。お怪我がないなら失礼します」
と言って去っていった。
私は事実を知っている。
でも事実を知らない人もいる。
その人たちがどんな思いでの光景を見てどんな結論を出すのか...想像してみるととても怖い。私の隣りで見ていた人が中途半端に『若者が自転車でおじいさんにぶつかった』などとTwitterに書き込んだりするかもしれない。「最近の若者はほんとに自分勝手で礼儀を知らない」とブログに書くかもしれない。
こうやって間違った情報というのは世の中に流れていく。
私は目撃者として見たままを書いた。どちら側の敵でも味方でもないつもりでいるが、ただその場に取り残された年配男性のバツの悪そうな顔は滑稽そのものだった。今までこういうやり方で生きてきた人なんだろうと思った。でも今日はそれが通らなかった。自分よりはるかに正しいことを言う若者を打ち負かすことはできなかった。年配男性は家に帰って家族に話すだろう「若いやつに自転車ぶつけられて、散々文句ゆうて逃げやがった」とかなんとか...こういう人は一生こういう風に生きていくのだ。
しばらくして、私の中で滑稽さがぶくぶくと膨らんで増幅してこの年配男性を蹴りたい気持ちでいっぱいになった。