見出し画像

太宰治「秋風記」の空白を解く


私は、太宰治の作品を読むのが好きだ。
痒い所に手が届くように、心のパズルにピースがすっとはまるように、冒頭の一文がありがたくて思わず天を仰ぎ、胸の内は拍手喝采、声に出して読めば心は夜の海のように静かになって、あるいはうっとりとした気持ちにさせてくれる。そういう、不思議な魅力がある。私にとっては、物語の内容というよりも、言葉の並びがそうさせているのだと思う。

もはや、物語を読んでいる感覚ではない。誇張ではなく、私が初めて太宰治の作品を読んだときはちょっとした勘違いをしたまま読み進めていたので、小説だということに後から気がついた。
登場人物ではなく、本物の人間の手記を読んでいる。創作物ではなく、赤裸々な胸の内を覗いている。お話が心に染み込んで、本当にあったことのように感じてしまう。何度も口に出したくなって、書き写してしまう。気持ちがいい。そう、なんだかすごく気持ちがいい。太宰治の作品からしか摂取できない何かがある。

つまりは、個人的に好みということだ。(前置きが無駄に長くなってしまった)

そんな太宰治の作品に関する初めてのnoteが「秋風記」になるとは微塵も考えていなかった。特別好きな作品というわけではない。「秋風記」よりも好きな作品は他にある。けれど、「秋風記」を読んで理解しきれなかった空白について、検索結果と答え合わせができた訳ではなかったので、やはりここに文章を書くことにした。
太宰治の作品が好きとはいっても、太宰治マスターとは程遠い私は、調べすぎずに(怠惰ともいう)ありのままに感じたことを書き記すつもりだ。人には人の感じ方があり、解釈に正解などは存在しないかもしれないけれど(そもそも本当のことは作者しか知らない)、自分の世界の中でしっくりくる結論に、まずはたどり着きたい。

※以下、現時点での私の考えを纏めていますが、全くとんちんかんな考察をしている可能性もあります。もしこの記事を有識者の方、もちろん有識者の方でなくても、なにかのご縁で読んで下さった方がいらっしゃれば、コメントで感想やご意見、ご教授を頂けましたらとっても嬉しいです。

それでは、

秋風記の空白


P.56
生まれて、十年たたぬうちに、この世の、いちばん美しいものを見てしまった。いつ死んでも、悔いがない。
けれども、Kは生きている。子供のために生きている。それから、私のために、生きている。

生まれて十年たたぬうちに、つまり十歳になる前までに見た、この世の、いちばん美しいもの、とはなんだろう。
ずいぶん、たくさんの身内が死んだ、という話がすぐあとにあるので、心中か何かを目撃したのではないか、と作者が太宰治であるという点にひっぱられて思ってしまったのだけれど、流石にそれは違いそうである。
いちばん美しいものを見た、のはKだけのことを指しているのか、それともKだけではなく、「私」も含まれているのか。わからない。



P.70
「K、そんなに、さびしいのか。K、おぼえて置くがいい。Kは、良妻賢母で、それから、僕は不良少年、ひとの屑だ。」
「あなただけ、」言いかけたとき、女中がミルクを持って来る。

Kの台詞「あなただけ、」に続く言葉で、私の脳内にパッと浮かんできたのは「ずるいわ。」である。
この後に「私」の台詞で、くるしむこともよろこぶこともその人の自由だという話があるが、Kは「ところが、私、自由じゃない。両方とも。」と返している。
だから、もし女中のミルクに会話が遮られなかった場合、「あなただけ、(自由で)ずるいわ。」そういった意味合いの言葉が続いたのだろうか。家庭という縛りがあるKと、その縛りがない「私」。

※そもそも、登場人物としての「私」と、Kの一人称である「私」の見分け方が少し難しく感じて、その台詞を言っているのが「私」とKのどちらなのかにも自信がない。



P.73
「私たち、もうなんにも欲しいものがないのね。」
「ああ、みんなお父さんからもらってしまった。」
「あなたの死にたいという気持、____」
Kは、しゃがんで素足の泥を拭きながら、「わかっている。」

みんなお父さんからもらってしまった、とはなんだろう。一瞬、富豪の一族を想像したけれど、物語冒頭で「私」がKを訪れたときに「いくら?」と聞かれていることから、お金持ちの話というわけではなさそうだ。
ああ、でも、ブルジョア。今気がついた。今書いていて点が繋がった。ブルジョア、それも、落ちぶれたブルジョア。つまり没落貴族だったとしたら。没落する前はお金に困ることがなく、贅沢をしていたかもしれない。

「あなたの死にたいという気持、」に続く「わかっている。」はKの台詞なのか、Kに対する「私」の台詞なのかが曖昧である。
Kは、しゃがんで素足の泥を拭きながら、とあるのでKの台詞なのか?
「あなたの死にたいという気持、わかっている。」
物語冒頭で、Kも「私」と同じ様に「生まれて来なければよかった。」と思っている。とあるので、"私も同じよ"という意味合いなのだろうか。

そのあと、「僕たち、どうして独力で生活できないのだろうね。」といった台詞がある。やはり、没落貴族の話か…!「斜陽」と同じように。


P.73
「たいてい、わかるだろう?僕がサタンだということ。僕に愛された人は、みんな、だいなしになってしまうということ。」
「私には、そう思えないの。誰もお前を憎んでいない。偽悪趣味。」
「甘い?」
「ああ、このお宮の石碑みたい。」路傍に、金色夜叉の石碑が立っている。
「僕、いちばん単純なことを言おうか。K、まじめな話だよ。いいかい?僕を____ 」
「よして!わかっているわよ。」
「ほんとう?」
「私は、なんでも知っている。私は、自分がおめかけの子だってことも知っています。」
「K。僕たち、____ 」

この部分が一番難しい。

まず偽悪趣味とは、悪を装うこと。それなら直後にある「甘い?」とは、悪を装うには僕は甘いかい?という意味だろうか。悪人ぶるには、詰めが甘いかい?それとも単に、僕は甘い男だと思うかい?という意味か、、

「ああ、このお宮の石碑みたい。」お宮の石碑みたいなのは、K自身のことなのか、「私」のことなのか。
尾崎紅葉の作品「金色夜叉」において主人公の貫一が許嫁のお宮の裏切りを知ってお宮を蹴る場面の石碑。
お宮をK自身と捉え、貫一を「私」とするならば、泣きながら許しを請うお宮(K)の裏切りとは、一緒には死ねないこと、家庭を捨てられないことか。
それとも、お宮を「私」のようだと例えているならば、裏切っておいて泣きながら許しを請うようでは、悪人になりきれておらず、悪人としては甘い、という意味合いか。
難しい。

次の「いいかい?僕を___ 」に続く文で、私の心に思い浮かんだのは、"僕を、好きになってはいけないよ"とか、"僕を、愛してはいけないよ"である。
Kは家庭を持つ良妻賢母、「私」は不良少年。僕を好きになって、だいなしになってはいけないよ、という意味。
直前のサタンの文から、"僕に、愛されてはいけないよ"もある。

「K。僕たち、_____」
さて、ここには何が入るのだろう。僕たち、不仕合せだね。とか、僕たち、一緒に死のう。しか思いつかないけれど、なんだか違うような気もする。
もしもKのいう、おめかけの子、というのが「私」の父親のおめかけの子、という意味なら、僕たち、姉弟なのだからね、というような展開もありうるのかと一瞬よぎったけれど、序盤で別段血の繋がりはない、と記載があるから多分違う。

僕を、好きになってはいけないよ、と言いながら、一緒に死んでくれるかい?というのは矛盾しているような気もするし、最後に「私」はKに指輪を送っている。
__黄色い石で水仙の花がひとつ飾りつけられていた。とある。

水仙の花言葉は、「自惚れ」「自己愛」
黄色の水仙になると「もう一度愛してほしい」「私のもとへ帰って」
つまり、この意味の通りであるならば、「私」はKにプロポーズのような意味合いで指輪を送っていることになる。
僕を、愛してはいけない、といったのに?だいなしにしたくないから、責任を取りたくないから、こわいから、僕を愛すなといったけれど、やっぱり僕を愛してほしいんだ、という流れもあり得なくはないか…

P.76
Kは、そのおかえしとして、ことし三歳になるKの長女の写真を送って寄こした。私はけさ、その写真を見た。

Kは、「私」のプロポーズもしくは無責任な誘惑には応じず、現実の生活を送り返した。お宮とするなら、お宮は不良少年ではなく、家庭を選んだ。夢が覚めたような思い、我に帰ったような思い、Kの感情も「私」の感情も直接的な説明がほとんどされていないにもかかわらず、この余韻。空白にあるもの。やはり、秀逸な終わり方である。



おわりに

気が向いて書き始めたこれをあげるのが「桜桃忌」になるとは、狙ったような偶然に少し驚く。もしかしたら的外れな考察かもしれないけれど、紐解く間は楽しかったし、図らずも「桜桃忌」のとても良い過ごし方になったようで、すごく満足した。
いつか、お墓に足を運んで、先生、生きる意味とは、なんでしょう、と独り言を呟いてみたい。

生きる意味とは、なんでしょう。
いいえ、今はもう、私が本当に聞きたいこととは違うと、気がついています。
生きていくことの、苦しさ、切なさ、恐怖、わたしは、どうやって立ち向かえばいいいのでしょう。

「___僕には、花一輪をさえほどよく愛することができません。」
死んだ僕に聞くな、と言われたらそうだけども、いつだって私は、死者に答えを求めようとする節がある。お父さんにも、おばあちゃんにも。そこに答えがあるわけではないと、わかっていても。だって、不安だから、弱いから。ファンタジーを信じているから、淡い期待をしているから。きっと本当は、頑張りたいから。

私の心境は私にしか知り得ないことのように、
本当のことはいつも、作者のみぞ知る。

どうしても、死ななければならぬわけがあるのなら、打ち明けておくれ、私には、何もできないだろうけれど、二人で語ろう。一日に、一語ずつでも良い。ひとつきかかっても、ふたつきかかってもよい。私と一緒に、遊んでいておくれ。それでも、なお生きてゆくあてがつかなかったときには、いいえ、そのときになっても、君ひとりで死んではいけない。そのときには、私たち、みんな一緒に死のう。残されたものが、可哀そうです。
君よ、知るや、あきらめの民の愛情の深さを。

「秋風記」太宰治



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?