言葉ひとつで変わる”伝えたいこと”は病状すら変えてしまうのか
最近、寝たきりですとか、薬に頼って生きていかねばなりませんとか、ネガティブな言葉を綴りながらアカウントを営む人達を沢山見るようになった。ツイッターもそうだし、NOTEもそうだと思う。闘病中の人々の紡ぐ言葉は確かに豊かで読んでいて面白いが、これって人によっては伝えたいことが伝えられていない可能性もあるのではないかと考えるようになった。
病院で「ここが痛いです」とだけ伝える人と、「ここが痛くてどうしようもない。何もできない。」と感想まで伝える人がいたとする。医師はきっと理論的に判断するだろうけれど、やはり後者のほうが重大な症状かもしれないと思われるのは当たり前だと思う。
振り返ってみると、「最近体重が減りました、心拍数の上昇が今まで145でしたが174まで上がります。」と機械的に伝える私の方法では、医師はただ数字だけを見て総合判断に至ると思う。それもそのはず、この患者がその数字を持っているだけで具体的にどれほど苦しんでいるのかは明晰に伝えられていないからである。
アメリカの医療は特に、数字だけを伝えると何もしてくれないことが多いと最近体感することが多くなってきた。しかし他人の診療を見学するわけにもいかないし、自分がどんな患者であるのかもわからない。もしかしたら話が短すぎて後回しにしてもいいと思われているかもしれない恐れがある。
ということで、redditで同患者が集う場所にとある投稿をしてみた。医者が真面目に受け答えをしている感覚がない、必要な治療を得られないといった愚痴のような内容で、彼らからのアドバイスを乞うもの。
結果、やはり事実だけを伝える患者は皆同じような問題に直面していたことがわかった。とにかく医者は流れ作業だし、数字だけほしい、結果だけほしい、そしてだらだらと話す患者はいやだろうと患者が遠慮するとその先にいつまでたっても進めないといったアドバイスがもらえた。では何を伝えたらいいか。「QOLがどれほど下がったか、生活にどれくらいの影響を与えているか」を伝えること。歩けない、歩行器を手放せないなど、とにかく相手が見えていない部分を描写することで必要な治療を受けられるとのことだった。
どうしても気遣いが先に出てしまう私は、医者がああだこうだというのを聞きたくないだろうといつも寡黙な患者を演じてしまうがそれは両者に不利であること、円滑に診療を進めるためには壁になってしまうということに気付きながらも話すことができなかった。
なんだか、負けた気がするのだ。
自分がどれほど大変かなんて、自分にしかわからない。逆もしかり、相手がどんな生活をしていてどんなに辛いことを経験しているかなんて知る機会はないのだから、「話せばいい」。なのに私はただ、”自分はそんなに重症ではないから”とか、”大変だけどなんとかやれているから”と自分を説得して事実からの逃避をしている。
今が一番しんどい、と口に出せる人たちがうらやましいとさえ思う。一番しんどい事なんてこの先沢山あるだろうし、過去にもあっただろうから「つらい」と口に出せない。
このジレンマに、私はずっと縛られている。
年を取るとやはり感覚が変わってくるのか、相手に高額な医療費を支払い薬を処方してもらう身であるのだから相手からの印象など考えず伝えるべきことはきちんと伝えてこないといけないのだと思えるようになっている。
友人や家族にはまだそれが出来るわけではないが、医者はしょせん他人だ、私が主治医を変えてしまえば一生付き合うことのない相手である。遠慮して症状を伝えきれず適切な処置が受けられないことの方がよほど一生を変えてしまう危険性があるということに気付いた。
だからきちんと話そうと思う。相手がそれに対して無碍な扱いをしてくるのなら主治医を変えたらよいのだし、社会はそういうものなのかもしれないと思っている。
薬の副作用かもしれない肌のただれ、治らない筋肉の痙攣、左胸の鈍痛もきちんと伝えなければ何もしてもらえないわけである。さっそくMychartで主治医に連絡を取ることにする。日記としてこの”決意”みたいなものを忘れぬよう書き記して一日を終えることにする。