見出し画像

劣等感があると他人に勝ったり優越したくなる|エースとの再会

アメリカ大統領選挙における不正の証拠が提出された

画像1

2021年9月25日。すでに多くの人がご存知であるとおり、アリゾナ州マリコパ群での大統領選挙不正の監査における証拠の提出がなされた。すべてQが事前にdropしていた通りのスケジュールでことが運んでいる。これは、驚愕すべき事態だろう。Red Octoberが、いよいよ本当に来る。

しかし、マスコミは、この後に及んでも、トランプ陣営をおとしめるための印象操作を続けている。

元記事は、コメント欄で非難轟々だ

画像3

画像4

画像5

画像6

画像7

重複投票の数が17,000票とは、これいかに。

メディアが半狂乱で印象操作をしたところで、増加しつづける覚醒者を騙すことはできない。騙せるのは、自分の頭で物事を思考できないB層だけであり、そんな人たちを騙したところで、大勢に影響はない。

僕も、以前、Twitter上で、「2020年のアメリカ大統領選挙で不正があったと言っている陰謀論者」と散々叩かれた。しかし、そういう軽率な人たちは、今回の不正証拠が提出されればされるほど、表を恥ずかしくて歩くことさえできなくなるだろう。

メディアも必死である。

今回の不正に関わった個人や組織は、もれなく国家反逆罪によって裁かれる運命が待っている。だから、最後の最後まで、悪あがきを続けるしかないのだろう。哀れな末路が待っている。

Syunとの再会|また一人覚醒者が増えた

画像8

2021年9月24日。約2年ぶりに、チームのエースだったSyunことI上くんと再会した。もう二度と彼とは関わるまいと思っていたが、関わらざるをえない状況になった。やはり彼との縁は、切っても切れないらしい。

彼は、短時間だが、僕の恩師の元で師事していたこともあり、弟弟子おとうとでしのような存在である(彼にその認識があるかどうかは不明だが)。彼は、僕の特別な時期に出会った存在で、UYと同じで、かけがえのない家族や兄弟のような存在なのだろう。過去に何度も離れては、再び縁が繋がって戻って来るという、不思議な間柄である。

以前彼と最後にあったのは、ウィルス騒ぎが起こされる前だった。僕もUYも、

「I上くん、自分のことだけ大好き人間でバカのナルシシストだから、今頃はワクチン打って死んでるかもね。」

と、半分冗談交じりで話していたが、彼は、毒物接種を拒否しながら、この戦火を生き伸びていた。これは、僕らにとっては意外な事実だった。

「実は、Aoiさんのnoteをこっそり読んでいました。以前からAoiさんの怪しい話を聞いていたこともあるんですけど、この騒ぎは、やはりなにかおかしいと思い、自分でも情報をたくさん調べて、勉強して、今回のワクチンは本当にやばいと理解したので、打っていません。今後も、絶対に打つ気はありません!」

と、きっぱり言い切ったI上くん。心なしか、表情や話し方が、以前と比べて少しだけ大人びたような印象を受けたのは、気のせいではないだろう。ゆっくりではあるが、着実に成長しているのがわかって、嬉しくなった。

彼も、UYと同じで、10年ほど前から、僕の陰謀談義を、嫌という程聞かされている人間のひとりである。

「世界はとんでもない連中に支配されている」
「来年あたりから、謎のウィルス騒ぎが起こされる」
「騒ぎの対象になるウィルスは、ワクチンのための捏造。毒ワクチンは絶対に避けないとね」

そんな僕の怪しげな、わけのわからない言葉に、当時の彼は、

「またAoiさんが、いつもの怪しい話をしている」

と、呆れながら思っていたという。しかし、彼も、UYとまったく同じパターンで覚醒した。ある意味、僕の狙い通りだった。

人間の成長において大切なことは、相手に嫌な顔をされようと、正しいことや大切なことは、言いづらい内容であったとしても、はっきり予め伝えておくことだなと、改めて思った。

人間は、誰かから間違いを正されたり、過ちを指摘されたら、その時は感情的になってしまい、面白くないという気持ちが優先し、相手の言葉に耳を傾けられないこともあるだろう。その傾向は、若ければ若いほど強い傾向にある。僕も昔はそうだった。

でも、本当に成長する人は、先生や先輩、恩師から言われた耳の痛い言葉を、しっかりと覚えている。

その時はわからなかったことも、何年か経って、経験が増えたり、環境が変わったりしたことで、受け捉え方も変わる。過去と似たような失敗をしたときに、誰かから教わったことをちゃんと覚えておけば、

「ああ、あのとき、あの人が自分に指摘してくれていたことは、こういう意味だったのか……!」

と気づき、理解できることがある。

その瞬間こそが成長であり、人生を生きる面白みではないだろうか。

2年前のI上くんも、自転車に関わることで、僕から厳しい指摘を受けた。彼も、それが嫌で、感情論にかまけて逃亡した。でも、2年間、僕らは離れて生活することで、お互いに自分を振り返り、省みることで、以前はわからなかったことが、ほんの少しだけわかるようになった。

僕らは、また、小さな一歩だけど、前進した。

兄弟子が言っていた。

「人は急には変われない。急成長っていうのは、オバケみたいなものだ。ゆっくりの成長を見守ることも必要だよ。」

過去にはいろいろあったけれど、毒ワクチンを受け入れず、健全に生きてくれていたのなら、今はそれで十分だ。

エースの吐露した劣等感|あれから2年経って話せること

画像9

2年ぶりの再会なので、お互いに話したいこと、聞きたいことはたくさんある。夜中の1時くらいまで話し込んでいた。お互い、ロードバイクや自転車競技から離れた今だからこそ、話せることもある。

僕が彼に一番聞きたかったことは、

「ロードバイクに乗っていた頃、なぜあんなに異常な量のトレーニングをして、強くなること、勝つことばかりに拘っていたの?」

ということ。

僕の主催していた自転車チーム『Be-Blue』にはいくつかのコンセプトがあり、特に、以下の2点を重要視していた。

・安全はすべてに優先する
・他人に勝つことに価値を見出さない
・健全な人間関係を構築する

彼は、真面目にトレーニングをする一方で、致命的なメンテナンスを怠ったり、過剰なトレーニング量で怪我をしたりと、チームがなによりも大切にしていたルールを疎かにしていた。レースでより良い順位を獲得し、誰かに勝つことを優先するあまり、チームの団結を妨げるような言動をしたこともあった。

どのような姿勢で競技に取り組もうと自由だけれど、チームの方針と違うことをするなら、チームを離れて、ひとりで練習するべきだと指摘していた。しかし、チームの居心地の良い雰囲気や人間関係を気に入っていた彼は、しばらく返答を濁したまま、最後は、中途半端で有耶無耶なまま、音信不通となったのである。
(その後、案の定、彼は大きな落車で骨折をしている。)

今はトレーニングをやめて、1年が経つというI上くん。僕の問いに対して、少し考えながら、こう返答した。

「昔、学校の勉強やテストが苦手で、点数や順位が全然取れなくて……。落ちこぼれでした。正直、それが、自分のなかで劣等感になっていたと思います。
でも、自転車を始めたら、思いの外強くなることができたので、出力やスピード、レースでの順位などが数字でわかることが楽しくなってしまって、つい……。
確かに、僕は勝ちにこだわっていました。レースで走って、少しでも誰かより順位をあげることばかり考えていました。
ウィルス騒ぎでレースがどんどんキャンセルになって、モチベーションもなくなってしまい、今は練習をやめてしまいました。でも、今は、なんだかとても気が楽になりました。競技をやめた今となっては、なぜあんなにまでして狂ったように練習をしていたのだろう、と、自分でもよくわかりませんね……。」

大方、予想していた通りの返答だった。でも、一度立ち止まって冷静になることで、自分の異常さやおかしさを理解することもできることがあるのだ。他人に言われても気づかなかったこと、認められなかったことを、自分で理解できるようになったのなら、それもまた、ひとつの成長だな、と思う。

真の健全な人格を取り戻すには、死んでも認めたくない事実を素直に認めることが必要不可欠

画像14

過去にもたくさん書いてきたので、今更具体的には書かないが、スポーツ、特に自転車競技に関わろうとする人たちの劣等感の強さは、群を抜いているように思う。(全員がそうではなく、なかには優れた人格者もいる。)

タイトルにも書いたが、他人に優越しようとしたり、勝とうとしたり、マウントを取ろうとしたりする人は、一部の例外はあるにせよ、無意識下に、深刻な劣等感がある。無意識下なので、本人がそれに気づいていないのが、最大の問題点だろう。

加藤諦三先生も、過去の著作のなかでおっしゃっているが、熱心な仕事ぶりや声高な正義感、不自然な明るさにも、実は深刻な劣等感が隠されているという。アマチュアスポーツでの過剰なトレーニング、レース結果や勝ちへの執着なども、まったく同じだろう。

I上くんも同様だ。他人に勝つべく、身体を壊すほどの異常な練習をし続けていた心理には、やはり過去の自分への劣等感(親への憎しみによって変装した、抑圧された他者への怒り)が関わっていたのだ。

前回のエントリで、加藤諦三さんとマドモアゼル愛さんの対談に触れたが、

公道でロードバイクに乗っていると、「もしもしカメよ、カメさんよ」と声をかけてくるうさぎに多く出くわす。

たとえば、強い男性の自転車乗りや仲間内には勝てず、相手にされないので、自分よりも明らかに弱そうな女性自転車乗りに絡んでくる輩。彼らは、紛れもない不健全なうさぎだろう。(もしかしたら、家庭や会社での人間関係に問題のある生活を送っている人かもしれない。)

反面、そういう不健全なうさぎの男性自転車乗りに絡まれた際、「なにくそ」と応戦し、しゃかりきになってしまう女性自転車乗りも、それはそれで、不健全なカメなのだが、案外、こういうタイプが多い。自分が女性であることの価値を感じておらず、ついつい男性に張り合ってしまうパターンで、どちらも同じレベルである。

今の自分には価値がないと感じていること。これが、加藤先生のおっしゃる、無意識下の「自己不適格感」や「劣等感」の正体だ。

マドモアゼル愛先生は、どこか別の動画で、

「スポーツや競技の順位で、人としての価値や優劣を競う時代は、もう終わりになるんじゃないか」

というようなことをおっしゃっていた。

僕もそう思う。

自転車で速く走れるとか、レースで優勝したとか、学歴があるとか、人よりもおカネや資産を持っているとか、どこそこの業界で成功しているとか、そんなものは、はっきりいって、人間の価値にはまったく関係がない。人間の価値は、他者への思いやりと、研ぎ澄まされた思考を得ているかどうかにある。それ以上のものは、存在しない。僕はそう考えている。

画像10

しかし、深刻な劣等感を抱えている人は、周りが「君は今のままで十分に価値があるじゃないか」と言おうと、とにかく今の自分のままでは価値がないと信じきっているので、絶対に理解しない。人に勝ったり、優越したり、マウントしたりする以外に、満たされない心の隙間を埋める手段がないと思い込んでいるので、いつまでも、人に褒められることだけを目的にした異常行動をやめられない。(だから、自分の思いとは正反対に嫌われるし、どこかで必ず人間関係のトラブルを起こす。)

対談のなかで加藤諦三さんがおっしゃっているように、人間の行動は、その背後にある心理を強化してしまう。劣等感を埋めようとするための行動が、実は、深層心理における劣等感を、増幅しているだけなのだけれど、そういう感情が無意識下にあるうちは、当人は気づかない。だから、悪循環に入ってしまう。

(加藤さんの、「成功すればするほど、勝てば勝つほど地獄へ近づいている」という言葉を真に理解すれば、プロのロードレース界であれだけの実績を残したマルコ・パンターニが、なぜ最後は自殺しなければいけなくなったのか、わかるだろう。)

画像11

画像17

根本的な問題解決を図り、他者との健全な人間関係を構築し、真に幸福になりたいのなら、劣等感を埋めるための代償行動をやめ、「自分には劣等感があるのだ」という、死んでも認めたくない事実を認め、それらを有意識上にあげることだ。そうすれば、夜明けは近い。

「自分は、今のまま、なにかの結果を残さなければ価値がない、他人に認められない。だから努力をしなければ! 他人に嫌われたくない!」

という思考を捨てる。

たとえば、

テストで点数が取れなくなっていいじゃないか。
レースで勝てなくたっていいじゃないか。
僕は僕なのだから。

と、ありのままの自分を素直に受け入れることが重要なのではないか。そう言い切ることのできる人は、悩みがない、と加藤さんもおっしゃっている。

これは、向上心を捨てるのとは違う。現実にあらがわず、自ら不幸を受け入れることで、目の前の幸せに気づくための手段である。

人は、今の自分がダメだと思った時点で、不幸になる。だから、なんとか幸福になりたくて、必死に努力をする。それが、実は、さらなる不幸を呼んでいる元凶だなんて、誰が考えよう。加藤諦三さんの残された功績の大きさは、この真理的な事実を発見したところにある。

世の中は、僕ら庶民を貶めるための、

「お前たちは、今のままでは価値がないのだ」

という破壊的メッセージで溢れている。それを投げつけてくるのは、実の親かもしれないし、教育かもしれない。もしくは、テレビやメディアの宣伝、政治かもしれない。いずれにしても、それらの破壊的メッセージは、僕らの可能性を潰し、幸せを遠ざけるための、資本主義による過剰競争への誘いであり、際限がない。

今の社会は、どこまでいっても、

「もっとやれ」
「まだまだ努力が足りない」

と、求めてくる。それが資本主義社会における競争だろう。

そんな過当競争の甘い誘いに一度でも乗ってしまった人間は、心も体も疲弊し、最後は闇や地獄へ落ちることになる。

だから

「自分は今のままでも十分に価値があり、幸福である。争う必要、競う必要はない」

と意思表示をして、競争から降りればよい。

そうすれば、たった今、目の前にあるすべてが自分の幸福の元であり、これ以上なにも得る必要がないという事実に気づくことができるだろう。

そうともなれば、なにも困ることはない。不幸になることもない。

画像12

雀鬼 桜井章一氏の、

「勝つって、虚しいんだよ」

という言葉にも、すべての本質が集約されている。

競う必要はない。

争う必要はない。

勝つ必要もない。

あなたはあなたであるがゆえに、すでに幸福なのだから。

一般的社会で成功するには、DSのような傲慢性が必要となる

画像15

この世の成功というのは、DSがしかけた、他者への優越行為を元に成り立っている。

騙したり、
脅したり、
偽ったり、
嘘をついたり、
貶めたり。

この社会でそれなりに成功するには、正攻法だけでは難しい場面がある。大なり小なり、DSのような傲慢性や排他性、冷徹さがなければ大成できない。そういう仕組みになっている。

反対に、そういった社会のひずんだ風潮に気づき、くだらない勝負の舞台から降りた人たちは、もれなく、日の目を見ず、落ちぶれているだろう。(もちろんそれは、悪いことではない。社会が当たり前としている競争原理から降りている人たちは、自ら望んで、幸福追求のために世間一般から離れているのだから、なにも問題がない。)

多くの人たちが、資本主義の競争原理を当たり前とし、それを良しとしているうちは、庶民の間における対立はいつまでも終わらないだろう。

自分さえよければ、他人がどうなろうと関係ないという、殺伐とした社会を形成しているのは、実は、支配者の作り出した偽の価値観に侵食された庶民同士の、過剰な競争意識だ。受験戦争や出世競争などが良い例だが、スポーツなどの競技も同じようなもので、相手を殺して、負かさなければ、自分の価値が認められないという世界である。

しかし、先にも、マルコ・パンターニの自殺について触れたが、加藤さんもおっしゃっている通り、資本主義の一般社会における成功の多くは、実は、大きな失敗や地獄への道筋につながっている。

そのことに気づき、無意味な競争から降りるだけで、多くの人は、心理的にも肉体的にも救われるのではいだろうか。

心理的幼児が持つ攻撃性の発散場所が資本主義の競争原理となっている皮肉

画像16

なぜ人は、支配者の作り出した幻想的価値観である「競争原理」に取り込まれてしまうのか。

その理由と原動力は、『憎悪』だろう。

人の無意識下に発生する劣等感は、多くの場合、幼少期に作られる。特に、まともな両親からまともな愛情をもらえずに育ってしまった人は、劣等感を抱えやすい。

そういった劣等感を抱えた人(僕もそうだった)は、無意識では、子どもの頃から親を憎んでいる。しかし、子どもが親を憎んで怒りの感情をぶつけてしまっては、親の支援を受けられず生きていけなくなる可能性があるので、子は、親への怒りを無意識下に抑圧する。その、抑圧した憎悪の感情が、成長とともに増幅し、大人になってから、親ではない他者への攻撃性に変わっていくのだという。(これも、加藤諦三先生から教わったことだ。)

現代の日本社会を見ればわかりやすい。この国は、両親が共働きだったり、離婚して片方しか親がいなかったりと、偏った環境によって育った子どもがたち、今、大勢の大人になっている。彼ら(僕もそうだ)は、幼少期に満たされるはずだった承認欲求を抱えたまま大人になっているので、身体は大人でも、心と精神は五歳児のまま。いわゆる、心理的幼児というやつである。

心理的幼児は、無意識下に、深刻な劣等感と憎悪を抱えている。

劣等感や憎悪は、弱さである。

しかし、自分の弱さを認められない心理的幼児は、それらを隠すため、弱さを攻撃性へと変装させて、他者への攻撃に出る。これが、加藤先生が「弱さは攻撃性に変装する」とおっしゃっていることの、僕なりの解釈である。(少し突っ込んだ話をすると、DSの彼らも過去、民族規模の迫害を受けていた。その時代からの歴史的な劣等感が、彼らのカルト的な原動力になっており、今日の世界支配を支えている。)

日本のネットにおいて、「炎上」という言葉が生まれて久しいが、些細なことでも、不特定多数が、特定個人をよってたかって過剰攻撃する社会現象も、こういった心理的幼児の蔓延が原因だろう。

他にも、

なにごとも自分の思い通りにいかないとすぐに病的な注文を入れるクレーマや、

他人のところにわざわざ出向いて、揚げ足を取るようにイチャモンをつけてくる輩たちも、

心理的な構造はまったく同じである。

幼児は、周りの大人が、自分のためのわがままを、なんだって聞いてくれると信じている。だから、

「もっと私を見て!」
「オレさまの言うことを聞け!」
「あなたに興味はないわ。とにかく私の話だけを聞いて!」
「言いなりになれ!」
「なぜオレさまのことを理解しない?!」
「私は間違っていない! 間違っているのはお前だ!」

と、幼児的な欲求や要求、攻撃性を周囲にぶつける。
(果たすべき自らの義務や努力を放棄し、親でも家族でもない他人に、無償の愛や保護ばかりを求める。)

それが本当の子どもなら良いが、二十歳や三十路を過ぎた良い大人が、子どもと同じような欲求、要求を他者にぶつける有様は、異常である。心は三歳児、五歳児となんら変わらない。そういう大人が溢れかえる社会が、今の日本である。

そういう心理的幼児が持つ、弱さから変装した攻撃性のもっとも安易な解消手段、発散場所が、資本主義の競争原理なのだ。

子ども達を親から引き離し、生育環境や幼児教育から劣等感を埋め込む。心の歪んだ子どもは、大人になっても心は子どものまま。深刻な劣等感と憎悪を抱えた五歳児の大人たちは、支配者が手を加えずとも、自ら勝手に対立し、いがみ合い、最後は、狂ったように互いを傷つけ、殺しあう。

彼らDSが、いかに巧妙に、この世の支配の仕組みを作り、僕らを操作しているかがわかるだろう。

自分に厳しいのをやめるのも覚醒|Eriさんの言葉

画像16

そういう負の無限ループから抜けるのは、Eriさんのおっしゃっているとおり、自分にも、他人にも、厳しいのをやめることだ。僕は、このEriさんの言葉で、救われたような気になった。自分の心の中にも、真っ黒い泥が溜まっていることに気がついたのだ。

(詳細は、otohimenomaiさんがエントリされていたので、抜粋させていただきます。ありがとうございます。)

自分に厳しいのをやめるのも、覚醒だよ
他人はもちろん、自分も許すんだよ
自分含め誰でも許せば、"怒り"の状態は一切なくなる
全ての失敗は成功に繋がってるよ。だから、何が起きても慌てる必要ないよ。頭空っぽにすれば、神が導くから、何も考えないこと。"考える"と、間違う。私はね。

2年前、僕は、I上くんにも、自分にも、過剰な厳しさを課していたように思う。

今思えば、それも、僕の心のなかにあった泥(劣等感)が原因だったのかもしれない。それが、彼や自分への攻撃性となっていた。だからこそ、自転車競技にあそこまで打ち込み、それなりのトレーニング効果を得られたと、今ならわかる。

hitoshi kawaiさんも、0927付けの記事でこんなことをおっしゃっている。

「魂を裸にする」ふと思いついた言葉です。
色んな服を魂に着せて、カッコよく見せる。
でもそれは気持ち良くない、と分かりました。

(中略)
誰しも魂の付き合いを求めているのだと思います。
海外に戻りたいのは、きっと裸の自分を求めているのでしょう。
ならば、今、ここでも少しずつ脱ぎ始めてはどうか?と。
SNSの問題は、魂に自分らしくない服を着せる事ではないでしょうか?
カギは全て脱いでしまう事、裸になってしまえば、幸せだと思います。

「魂を裸にする」

とても素敵な表現だな、と思いました。

今の時代、みんな、

誰かに褒められたくて、
よく見られたくて、
自分を偽っている。

高級な服を着てアクセサリで着飾ってみたり、
注目されるために過激な動画をあげてみたり、
インスタ映えを狙ってみたり。

でも、そういうのは偽であって、とても醜い行為に見える。

今日は珍しく長々と書いてしまったけれど、要するに言いたかったことは、

無用な怒りがあると、DSの思惑に取り込まれる。だから、自分を素直に振り返り、弱さを認めて克服しよう。

ということ。

他人を許すというのは、間違いを見逃すとか、悪事を許容するとか、正当な怒りや主張を抑えこむという意味ではない。

でも、

自分の心の中に、劣等感はないか?
そこから生まれる憎悪による行動はないか?
他人に依存していないか?

という点検をすることは、とても大切だと思う。

無駄な思考、余計な垢を削いで、削いで、剥いでいく。

思考を研ぎ澄ますのと同じで、心を研ぎ澄ますには、

すべてを脱ぎ去ること。

勝利もいらない。

優越感も劣等感もいらない。

名誉も、
富も、
名声も、
プライドも、
嫉妬も、
不安も、

全部いらない。

すべてを捨てて、それでも最後に残ったものだけが、たったひとつの、求めるべき真実。

ありのままの自分。

装飾のない、純粋無垢のままの幸せ。

それを噛み締めるには、捨てる覚悟が必要です。