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おカネじゃ絶対買えないもの|世界の夜明けと目覚めに必要なのは太陽の光

人の好意はおカネで買えない

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世の中には、

「カネさえあれば何でも買える」

という人がいる。

下品な成金YouTuberたちが、広告収入で儲けたあぶく銭を使って、一般的な収入の人たちでは絶対に買えないようなモノ(やコト)を買ったりして、自慢げに視聴者に見せつけているのを見かける。ああ、若い人たちは、こういうくだらない映像を毎日のように見ては、権威主義に煽られながら、わざわざ自分の劣等感や無力感に拍車をかけて、自分の意識を堕落させているのだなあと、いたたまれない気持ちになる。
(大昔はアングラだったYouTubeも、今は、テレビとほとんど変わらない、DS側のメディアコンテンツに成り果ててしまった。最近のエントリでも書いたが、表メディアは、こうして、「どうだ、俺たちはカネや権力を持っていてすごいのだ。しかし、そうでないお前には価値がない」といった破壊的メッセージを送り続けて、善良な庶民の心を堕落させる。近寄らないほうが賢明だ。メリットはなにひとつない。)

確かに、現状の世界は、DSの作り出した資本主義(拝金主義)に支配されているので、おカネがなければ生きてはいけない。おカネがあれば、なんでも買える。それは、ひとつの事実だろう。

しかし、人間が社会で健全に生きるうえで、おカネさえあればすべてが解決するのかといえば、そうではない。おカネの力では絶対に得られないものも、複数ある。

たとえば、人の心がそうだ。

特定の男女が、恋愛したり、結婚したり、生活を営んだりする関係には、多くの場合、お互いの、相手に対する好意というものが存在する。これは、男女の関係ではなく、同性同士の友情などにもいえる。人間同士の健全な関係性には、必ず、お互いの好意というものがあって、はじめて成立する。

なかには、相手の財産やおカネが目当てで結婚したり、友人になったりする人もいるし、おカネの力で、異性や友人関係を購入したりする人もいる。しかし、前者と後者の違いは明らかである。それは、前者における関係は、おカネがなくても、継続的に成立するという点だ。

もちろん、前者の関係性にも、多少のおカネは必要だが、関係性維持のための継続的な金銭の支払いは必要ない。なぜなら、両者の関係性をつなぐものが金銭ではなく、お互いの好意という、目には見えない心の部分だからだ。実際、おカネがある立場から、貧しい環境になっても、夫婦生活を送る男女はいるし、相手の収入や資産の大小で友人を選ぶ人は稀だろう。(もしも、友人を、持ち金の大小で選択しているのであれば、それは友情ではなく、商売か詐欺目的である。)

反対に、後者は、継続的なおカネの支払いがなくなれば終了してしまう関係である。『カネの切れ目が縁の切れ目』という言葉があるように、そういう夫婦関係もあるし、友人関係もある。

僕は、前者における、相手からの無償の好意や愛情、心の動きは、おカネでは買えない精神的なものだと捉えている。(反対に、後者における関係性を維持しているのは、おカネで一時的に仕入れた、物質でしかないと思っている。)

物質だけでは死んでしまう人間の赤ん坊

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「他人からの好意や心なんて、なくても生きていける。お金さえあれば、家や食糧、水が買えるのだから、それで十分ではないか」

そういう人もいるかもしれない。

しかし、生まれたての人間の赤ん坊は、物質(ミルクやおむつ交換)の提供だけで育てようとしても、死んでしまうらしい。そういう研究がある。

いつも、「まともな両親から、適正な愛情を受け取って育たなかった人は、どこかしら偏った大人になる」と書いている。人間の生育には、それだけ、父親と母親、両方の愛情が大切なのだ。
(母親の笑顔や口の動きなど、多彩な表情も、愛情のひとつであるのだが、今の狂ったマスク社会に疑問を持たず、表情を隠したまま子育てをしている母親たちは、自分の子どもの生育や発達にどういった弊害が生じているか、理解しているのだろうか。)

僕ら人間は、生まれた瞬間から、親(とくに母親)からの熱烈な愛情を受け取り続けることができなければ死んでしまう。そういうふうに設計されている。これは、赤子に限ったことではなく、青年だろうと高齢者だろうと同じことがいえる。人は、他者との健全な心のつながりを失っては、まともには生きていけない。社会から隔絶したり、他者とのつながり、集団への所属意識を失ってしまい、鬱になり、自殺する人も大勢いる。

こういう事実からも、「モノさえあれば、他人からの好意や愛情がなくても生きていける」という解釈が、実は、形而上学的な誤謬ごびゅうであることがわかるだろう。

自然の恵みもおカネでは買えない|日・水・土によって生み出される食糧

水と食料は、人間が生きていくために欠かせないものだ。

飲料水は、おカネを出せば買うことができる。ペットボトルに入れられた水を購入したコトがない人はいないだろうし、水道水を日常的に使うことがない人も稀だろう。水は、物質的にも取り扱いがしやすく、容器に詰めればどこでも流通させることができるので、多く商品化されている。

食糧も、おカネを出せば買うことができる。これは、説明する必要がないだろう。

ただし、ここで理解しておくべきなのは、あらゆる食糧の根源が、実は、おカネでは買えない自然の恵みによって作り出されているということだ。

米や野菜などの農作物は、植物なので、太陽の光、降雨や地下水脈、そして、土中の微生物が生み出す栄養分(や昆虫の媒介)によって成長する。牛や豚、鶏などの、食肉となる動物も、自然の恵みによって生まれる、植物性の飼料を食べなければ、この世に存在することはできない。

人間をはじめ、あらゆる生命は、日・水・土、空気や大気といった、おカネでは絶対に買えないものによって成立している。僕らが日常的に、おカネを出して購入している飲料水や食糧は、人工的なチカラで生産しているのではない。あらゆる食べ物は、自然の恵みによって生み出されれている。僕らが普段口にしているものは、それらを食用として加工し、商品化し、流通させられているから、おカネという人工的なもので間接的に購入することができるだけだ。このことからも、いくらおカネがあったとしても、自然の恵みが無くなってしまえば、僕らは食糧さえ手にいれることができないことがわかるだろう。

物質主義は大切なモノを忘れさせる

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物質的なものが、悪で、不要だと言いたいわけではないが、生命の本質に関わる重要なものは、実はすべて、おカネでは買えないものだということを、理解しておくことは必要だと思う。おカネで買えるようなものに、実は、大して価値がないという事実に、気づく必要がある。

資本主義経済における拝金主義は、そういった、人間同士の触れ合いや、心のあり方、自然の恵みへの感謝などの、人として失ってはいけないはずの大切なものを、忘れさせる怖さがある。

おカネや物質というのは、あくまでも補助的なものだ。人が人らしく生きるために、本来、主体として求めるべきは、心や精神といった、目には見えない(数値化できない)ものだろう。現に、日本は、戦後、経済が発展して、物質的には豊かになったが、そこに住まう国民の心はまったく豊かになっていない。それどころか、モノの溢れる量と比例するかのように、人心は腐敗しているように見える。

極端な物質主義や拝金主義には、目には見えない大切なものの存在を霞ませる、強い魔力がある。その魔力に染まってしまった人は、すべてのものを、おカネでしか換算できない堕落者に変えてしまう。

顔や体型の良さとか、
どれだけ高級なものを身につけているかとか、
大きな家や高級車を持っているかとか、
ステータスのある職業についているのかとか、
資産や年収はどれくらいあるのかとか、

他人をモノのように扱い、物質的なステータスでしか評価することができない、底の浅いロボットのようになってしまう。冒頭で紹介した、おカネの大小や資産の有無でしか他人と繋がることのできない人たちは、これに該当するだろう。

本来であれば、人としての価値は、思考や洞察の鋭さ、品格の高さや心の豊かさなどであるはずだが、物質主義者に、そういった本質を評価できるほどの感性は残されていない。

信じたものをすべて嘘にするなら雨は止む|健康もおカネでは買うことができない

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槇原敬之の「太陽」という曲がある。

もう20年以上も前にリリースされた曲だが、僕は、この歌がとても好きだ。
(有名人や著名人の大多数がDSであるということは、この際、一旦横に置いておく。覚せい剤の所持や使用が許されることではないのもわかっている。ただ、作品は作品として、評価したい。偏った環境で育った、偏った人だからこそ、生み出すことのできる優れた作品ものがあるという側面を、一部は理解したい。)

『僕らにかかった雨雲は すべてを隠し試した
信じたもの全て嘘にするなら この雨をやませてやると』
『誰かのための幸せを 当たり前の様に祈りたい
今の僕に必要なのは ただその一つだけ』
『何も求めずに 何も変わらずに いつも僕らを照らす太陽を
この暗闇の中 雨に打たれながら ずっと待ち続けた
そうして今僕は 明るい日差しの中で このぬくもりをあたりまえに
感じていた僕に 初めて気付いた』

久しぶりにこの曲を聴くと、歌詞の中身が、いまの、捏造嘘ウィルスに席巻された世の中を指し示しているようにも思える。

世界はいま、分厚くて黒い雨雲に覆われている。人々は、とても冷たい雨に打たれながら、夜明けを待ち続けている。

でも、太陽が再び昇り、僕らの目の前に現れるには、これまで僕らが、支配者層から信じさせられてきたあらゆる常識が、すべて嘘だったと気づかなければいけない。

僕らが、長年に渡って信じさせられ、刷り込まれてきた偽の常識というのは、資本主義社会のすべてだ。

「カネさえあればなんでも買える」といった傲慢性や驕り、高ぶりは、人間の生命と、自然や地球との繋がりを否定し、生命と宇宙の直接的同一性を分断する。物質主義という、くだらない幻想に捉われているから、ありもしないウィルスの恐怖におののき、効果のないどころか、危険なワクチンに群がってしまうのだ。

人工的に作り出された物質(薬物)に頼らなくても、僕らには、元来、ご先祖さまたちからから与えられた、素晴らしい自然の免疫力や治癒力があるではないか。しかし、物質主義に汚染された人たちは、こんな当たり前なことさえわからなくなってしまった。

付け加えると、健康もおカネでは買うことができない。医療に頼って、薬を使って健康になれていると思っているのだとすれば、それは幻想に過ぎない。

世界が黒い雨雲に覆われている今こそ、僕らが、DSのあらゆる支配から脱却し、原点に回帰するチャンスだ。しかも、それは、多分、人類史上最初で最後の機会となるかもしれない。

(僕は、一応、自称「無神論者」ではあるけれど、無神論の定義はよくわかっていない。もともとは農業をしていたし、恩師の影響もあって、奉納という意味では、特に、天照大御神の祀られる伊勢には縁がある。物質的な神さまの存在はよくわからないけど、精神的に、神に奉仕するといった心のあり方は、大切にしているつもりです。)

自分を特別だと思ってしまう罠

良いタイミングで、マドモアゼル・愛さんが、こんな映像をアップされていた。これもYouTube動画であるが、なかにはまだ、こういったまともな映像を上げてくださる方もいるので、嬉しい。

DSに押し付けられてきた支配から脱却し、本当の意味での日の目を見るためには、僕らが長年の間に刷り込まれてきた常識から生まれる、傲慢性を捨て去るべきだ。

それを、マドモアゼルさんは、「自分を特別な存在だと思わないこと」という言葉で表現する。

先にも書いたが、DS支配者らは、

「あなたは今のままでは価値が無い」
「だから、人よりも特別になるために……」

と、破壊的メッセージと甘い言葉を同時にばらまき、僕ら庶民を、彼らの搾取の草刈り場へと引きずり出そうとする。現に、多くの人たちは、彼らの甘言に騙され、不毛な神経症的な競争の場に駆り出され、搾取され、疲弊、堕落している。

「自分は誰よりも特別な存在なのだ」という思い上がりは、DS自身の傲慢性そのものである。それは、彼らの選民思想や優生学的思考に、如実に表れている。

しかし、人よりも優越し、勝負に勝ち、成功したがる傲慢性は、僕ら庶民のなかにも、すでにしっかりと植えつけられている。それが、加藤諦三さんの解いたナルシシズムである。

(この映像は、過去に何度も紹介している。後半部で、当時のトランプ政権に対して、若干批判めいた内容があることは、僕も理解している。しかし、それはそれ。加藤さんは、政治や経済の専門外であるので、致し方ないのと思っている。参考になるものは、しっかりと吸収すればいい。僕はそう考えている。トランプさんに肯定的なマドモアゼルさんと、そうではない加藤さんが、一緒に同じラジオ番組をしているなんて、とても興味深いではないですか。まあ、この映像は、かなり昔のものなので、今の、加藤さんの、トランプさんに対するスタンスはよくわかりませんが。それから、マドモアゼルさんが、日本のanonを否定的に捉えている? 某F原氏と仲が良いのも知っています。僕は、昔からF原さんはあまり好きではないですけれど、マドモアゼルさんは、個人的には好きですね。)

お二人は、過去に紹介した動画のなかで、

「成功すればするほど、実は、それが地獄への道となっている。」

というニュアンスのことをおっしゃっていた。これは、とても素晴らしいお話だなと思った。

自分を特別だと思い込んでいる傲慢なナルシシストたちは、人よりも優れたくて、誰かに勝ちたくて、異常な努力をしている。その異常な努力は、DSの支配する経済至上主義の社会で成功するためには必要なことだ。(冒頭に書いた、下品なYouTuberたちの、ずんだれた醜い顔つきを見れば、彼らがそういった、一種の傲慢性に捉われていることがわかる。)

しかし、マドモアゼルさんはこうもおっしゃる。

・自分を特別だと思うヒエラルキは、優生思想そのもの
・優生思想はあらゆる悲しみの原因であり、選民思想につながる
・選民思想はイスラエルの民、ユダヤ人だけのものではない
・自分を特別な存在だと思う間違った価値観は、他人との間に壁をつくる
・自分を特別な存在だと思えば思うほど、他人を馬鹿にして、見下し、対立を生む
・そういう傲慢な人だけが上に行けるピラミッド社会の構造の原因が、ナルシシズム
・コマーシャリズムには「あなたは特別な存在にならなければならない」という競争社会のメッセージで溢れている
・自分を特別な存在だと思っているうちは、本当の意味で自分の人生を歩むことはできない
・ナルシシストがのし上がれば、最後の最後まで殺し合いが起きる
・優秀な人が、そうでない人たちを殺しても良いという考えが選民思想
・解決は、自分はなにも特別な存在ではないということを理解すること
・才能や能力の差は確かにあっても、そんなものは、だからなんだ? というレベルのものでしかない
・自分を特別な存在だと思う人たちが、あらゆる問題、あらゆる不幸を起こしている
まともでない人だけが、自分を特別な存在として、最後まで、自分を行使していく。そりゃあ、いい時代が来るわけがない。

特に、最後の言葉には、UYが大きく頷いていた。彼女は、自転車競技に取り組んでいた頃、あらゆるタイプのナルシシストに出会うことで、他人より優越しようと努力している人たちが、いかに異常な精神性を持っているかを、骨身にしみて感じたからだ。

自転車競技やスポーツに限ったことではない。社会におけるあらゆる分野で、エリート思想や出世競争にハマってしまった人たちは、もれなく、「自分は特別な存在だ」と、本気で思い込んでいる。だから、他人を見下し、馬鹿にし、嘲笑し、「俺だ、オレだ、おれなんだ!オレさまは凄いんだぞ!」と、自分のナルシシズムを満たす、異常行動に陶酔することができるのだ。

まさに、「そこのけ、そこのけ、おれさまが通る」であるが、僕も、そういう異常者の人たちを、大勢知っている。(昔は、もしかしたら自分もそうだったかもしれないからこそ、彼らの異常な精神性が、嫌という程に理解できる。)

しかし、加藤諦三さんは、そういう人たちを、

「親に愛情を注がれずに育った五歳児の大人」

と、シンプルな一言でばっさりと切り捨てる。

人に優れようとするナルシシストたちは、実は、心の奥底では、自分の無力さや無価値感に、心の底から怯えている。加藤さんの映像のなかで語られている、無意識下における自己不適格感というものを強く感じている。彼らは、強がっているだけで、実はとても弱い人たちなのだ。

弱い犬ほどよく吠える、という言葉があるように、人に優れようとする人ほど、大きな成功ばかりを求めて必死に努力をしようとしている人ほど、人間的な中身は大したことがない。過去の長い歴史のなかで、民族的に迫害を受け続けてきたDSの連中が、何百年もの間、世界を支配してきた裏側には、彼らの精神的な弱さが確実に存在している。

だからこそ、真に強い精神性や自主性、幼児性を排除した健全さを保った新しい社会を構築するためには、自分を特別だと思うってしまうような傲慢性を、すべて捨て去る必要がある。

自分を特別だと思わないために謙虚さを取り戻す|足るを知る

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傲慢性を捨てるには、過剰な成長を求める資本主義から離れ、くだらないメッセージばかり垂れ流すマスメディアからも、可能な限り距離を置くことだ。資本主義社会も、マスメディアも、もうじき終焉を迎える泥舟だ。今のうちから離れておくことをおすすめする。

「そういう生活に不便はないですか?」

と聞かれることもあるけれど、僕はまったく不自由を感じていない。

先にも書いた通り、おカネで買えるような程度のものの価値なんて、まったく大したことはない。物質は、僕ら人間の精神活動を支えるための道具でしかないのだ。それらに、過剰な価値があるように見せかけてきたのは、それらを大量に売りつけてカネを儲けたい、資本主義の体制側の人たちの思惑でしかない。

(本当は、すべての人たちが、自然体で生活をしても、きちんと子どもを育てて、母親がちゃんと毎日隣にいられるくらいの、経済的にも、時間的にも、余裕のある穏やかな社会環境を構築すればいいのだけれど、僕らの収入の大半は、支配者に盗まれているので、それができない。だから、大勢が熾烈な競争社会に駆り出されて、延々と働かされて、でも、まったく豊かにならないのだ。だったら、彼ら支配者を、一匹残らず排除して、僕らで、もとの自然と密接したいにしえの生活を、誰でも傍受できるような社会に作り直せばいい。)

おカネなんて、最低限暮らしていけるだけあればいい。むしろ、多くあればあるほど、人生が濁るだけだ。

高級な服も、カバンも、クツも、時計も、アクセサリも、車も、大きな家も、庭も、なにもいらない。

必要なのは、暖かい太陽の光と水。新鮮な空気と、豊富な土壌。

自然から生まれた、素朴な食材。

ちょっとポンコツなUYと、愛らしい犬たち。

価値観を共有できる、極少人数の楽しい友人や親しい仲間。

支配者の流す嘘に影響されない、鋭い思考。

これさえあれば、人間は、健全に、楽しく生きていける。

逆に、いくらおカネが大量にあったって、それらを失ったら、楽しくない。この世は、生きるに値しないかもしれない。そう思ってしまう。

物質主義に染まった僕らは、世間の常識に騙され続けて、多くを求めすぎている。

その傲慢さに、警鐘を鳴らしているのが、今の世界の騒ぎだと、僕は捉えている。

多くを求めない。

足るを知る。

別に、誰かより優れた特別な存在じゃなくても、それでいいじゃないか。

確かに、能力や才能の差はある。

でも、それが、他人より偉いとか、優れているということにはならない。

誰が上で、誰が下とか、そういうことではない。

みんなそれぞれ同じだけ価値がある。役割が違うだけだ。

毎日、寝て、起きて、呼吸をして、飲んで、食べて、笑って、怒って。

楽しくても、
辛くても、
悲しくても、
嬉しくても、

こうして同じ生活を送りながら生きられているだけで、十分すぎるくらい素晴らしいことだ。それ以上に、果たして一体なにが必要だというのだろう。

今まで一度も自分に嘘をついたことは無いか?
違うのに正しいとやり過ごしたことは無かったか?
問いかけた時僕は気付く 喜びも悲しみも
自分がすべて選び 心に招き入れていることに

当てのない不安で 容易く変わるような
ものを僕は もう信じたくない
僕の見上げた空に 太陽があるから
それがとても嬉しいから

あなたは、あなたというだけで、すでに十分価値がある。

僕は、僕というだけで、すでに十分に価値がある。

まずは、それではダメですか?