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緊急停止ボタンを押した

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「ドン」
イヤホンを付け、エッセイを片手に帰る電車内で鈍い音がした。
左を見ると、袖仕切(というらしい)の座席側に上半身を仰け反らせる状態でおじいちゃんが倒れている。
「硬直してる...?」と思った。あぶない。
数秒の沈黙の後に中年の女性と男性が声をかけ、近くの人が空けた席に座らせ様子を伺う。私は立ったまま乗っていたのでよく見えた。どうやら意識はあるみたい、よかった────

私にできることは?

ジワジワ...ポンッと、焦りが出た。
事態を知るなりイヤホンは外して左手に集約、本は閉じていたので、汗とともに握りしめながら"緊急停止ボタン"を探した。気が動転していた。
「ここです」と、また違う中年男性が教えてくれ(友人には『どうしてそのおじさん自身が押してくれなかったんだ?』と言われたけど、私と同じくらい動転していたからだと思う)、初めて触れるそれに力を込める。
パリリ 簡単に半透明の赤いカバーが割れ、その向こうの濃ゆい赤に指が届く。その途端に響く警告音と女性駅員のアナウンス。「ボタンを押した方、応答をお願いいたします」視線という視線を独占する中での状況報告は、上がり症気味の私にとっては難関なことだった。
なんとか言葉にし、次の停車駅で救護対応してくれるそうですとヒーローたちに伝える。ボタンの位置を教えてくれた男性にもお礼(いやいや、貴方が...と謙遜されていた)。
ひと安心、と立ち位置を戻した時に気づいた。私の足が、ひどく震えている。なんなら手指も。いや、全身だ。

電車が停車駅に着くと、誰よりも早くドアを飛び出し「どこですか!」と小走りで向かってきた駅員さんを案内する。

おじいちゃん、座ったら落ち着いた模様。結局運び出されずに、傍で支えてくれた女性がどこかまで付き添ってくれるようだ。私はその電車に乗り直す気にはなれず、車両内から私に微笑むその女性と丁寧めの会釈をし合って解散した。他の男性たちとも、ホームで丁寧めの会釈・解散。

その後のスーパーでは、予定外すぎる大注目やボタンを押した事実により大勢の時間を止めてしまった現実、そしてあれで役目を果たしたことになるのか?という疑問に苛まれ、判断力がすごく鈍った(いつもは10分のところを体感1時間ほど使ったような)。「あの場にいた私には、あの行動が全てだったのよ...」と言い聞かせ続けた。

数分間の電車内で、いろんな人の顔を見た。いつもはなるべく視線を逸らす、都会で生きる人たちの顔を。
助けようと咄嗟に動ける人への安堵や、ソワソワと様子を伺う人への共感、なるべく遠くへと去っていく人たちへの背中へ向けた絶望。を、一気に感じた。そして私自身が、人の役に立ちたいとつくづく願っていたことを知った。

これは今日のさっきの、とある出来事だけれど、全身を震わせ「どうにかしよう」と起こした本気のアクションを忘れたくない。恥ずかしくて苦しいその本気。私の素の心。

上京して、早くも6年。こんなにも魂が密集するこの地で、私はなにかの一役を買えた?
後回しにしてきたその問いを急に突きつけられた気がして、戸惑いを隠せずにいる。

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