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『捨てる、その過程』参考文献編

この前所属サークルのWS「めくる会」にて発表した『捨てる、その過程』で参考にした作品等を紹介します。

『捨てる、その過程』の全文はこちらから

多分わたしは「元ネタがある」ことをすごく好む傾向があって、なんていうか、絶対的に自分の脳みそだけで考えたものって、ひとつもないじゃないですか。例えばあなたが話す言葉や思想は両親の口癖に、ちょっと見かけただけの広告に影響されていて、なにかから構想を得て、自分が構成されるじゃないですか。それは絵でもダンスでもスポーツでも演劇でも同じことで。だから、わたしは個人的に「元ネタがある」と明言すること(そして元ネタから飛躍した「自分らしさ」を持つ作品を作ること)が、わたしなりの誠実さなのではないか、と考えています。

今回の『捨てる、その過程』は、寺山修司の『書を捨てよ町へ出よう』をわたしならどう書くか/どう演出するか、をテーマに作成しました。去年10月にマームとジプシーの『書を捨てよ町へ出よう』を観劇したとき、私が読んだことのある『書捨て』と大きく違ったことに感動して、わたしも自分なりの『書捨て』を上演してみたい!と思いました。後から分かったことなのですが、元々『書捨て』は評論版と戯曲版で大きく内容が違っていたのでした。わたしが読んだことがあるのが評論版だったので、そのあまりの変化に驚いてしまったのですが、後々戯曲版があることを知って読んでみたところ、マームとジプシーは割と原作に忠実めでした。笑

『捨てる、その過程』で主題となった「私が娼婦になったら」は、評論版『書捨て』の「ハイティーン詩集」に掲載されている「私が娼婦になったら」という詩から構想を得ました。詩については後述します。

この戯曲は元々四人芝居だったので、ひとりひとりに「花・鳥・風・月」を当てはめて書いていたのですが、キャストの降板により三人芝居に変更する際、3人の女性ひとりひとりに「雪・月・花」のモチーフを当てはめました。ちなみにこの作品は、HONNEというイギリスのアーティストの”Day 1”という曲に合わせて言葉を言っていくスタイルだったのですが、月=秋、雪=冬、花=春、の順番で「秋に恋をして、冬に不安に駆られ、春にはさようなら」という流れになるようにしたかったので、大まかに曲の1番は月ターン、2番が雪ターン、ラストが花ターンという形になっています。

私が娼婦になったら悲しみいっぱい背負って来た人には翼をあげよう
私が娼婦になったらたろうのにおいの残ったプライベートルームはいつも綺麗に掃除して悪いけど誰も入れない
(中略)
私が娼婦になったらアンドロメダを腕輪にする呪文を覚えよう
(中略)
私が娼婦になったら誰にも犯サレナイ少女になろう
(中略)
淋しい時にはベッドにはいってたろうのにおいをかぎ
うれしい時には窓に向って静かに次に起こることを待ち
誰かにむしょうに会いたくなったらベッドにもぐって息を殺して遠い星の声をきこう                   
(「私が娼婦になったら」)

曲の1番にあたる部分は割とハイティーン詩集の「私が娼婦になったら」からの抜粋が多く、改変も最小限にとどめています。全体的な演劇の構造としても、内容としてもなんとなく最初が子供(月)⇒だんだん成熟していく(花)、という形にしたかったので、最初の部分はあえて寺山修司の言葉の引用を多く(自分の脳で考えられない=子供)、最後になるにつれて引用が少なく&多様になっていくようにしました。意味のないこだわり。

それから、頻繁に出てくる「〇〇したい」の言葉の羅列は、同じくハイティーン詩集に掲載されている「百行書きたい」という詩を参考にしました。その名の通り10代の男の子が自分のしたいことを100行かきたてるだけの詩。

・「シャボン玉ホリデイ」を見たい
・接吻のあとに”ゴヲゴヲ踊ろうか”と囁きたい
・コヲクとペプシをチャンポンしたい
・埃より小さな星を食べたい
・トイレに行きたい
・”セ”したい
・東京へ行きたい
・待ちたい
・水平線で凍死したい
(「百行書きたい」)

100個の「若い欲望」から9つを選んで参考にしました。「トイレに行きたい」と「セックスしたい」を並べるのって個人的には天才だなと思ったのですが、なぜか読んだ時「”セ”ってなんだよちゃんとセックスって書けよ」と思ったわたしのこの思想はたぶん山田詠美の『僕は勉強ができない』という小説で主人公が「エッチじゃなくてセックスって言いなさい。セックスのほうが高尚だから(うろ覚え)」みたいなセリフを言うところから影響されているような気がします。

わかっていてよと伸ばした腕に
止まる小さな黒い蝿
振り落とされて惨めに蠢く
牛乳の中の黒い蝿
(「捨てる、その過程」)

この部分は、役者に「なんか好きな作品の言葉があったら教えて〜」と言って月役のみゆきから教えてもらった、映画『ヒミズ』に出てくる「俺にはわかる 俺にはわかる 牛乳の中の黒い蝿」という言葉を参考にして書きました。

果たされない約束がしたい
月夜の晩に散歩がしたい
(中略)
夜をぶっとばせ
ヒールを鳴らせ
『揺れる耳飾り』
耳、赤いよ?
触れる、振れる心臓
何がしたい?
(「捨てる、その過程」)

このあたりは完全にわたしのオリジナルなんだけど、良くない?(自画自賛)

覚醒
わたしのからだにとじこめられたほんとのわたしは泣いている
満身創痍で慢心
『また来る春は何だろう』
(「捨てる、その過程」)

「わたしのからだにとじこめられたほんとのわたしは泣いている」は寺山修司のなにかの詩の一節だったと思います。「満身創痍で慢心」とか「触れる、振れる心臓」はわたしが単にこういう言葉遊びが好きというだけ。

十八、十九をいったりきたりしながら夢だけを観させてね
(「捨てる、その過程」)

これは村上春樹『ノルウェイの森』の一節「十八と十九のあいだを行ったり来たりしているほうが正しいんじゃないか」から来ています。

好きだった、雪だったあのころの日々そのものだった君
天使にできないこと、あくび、ふたり音重ねて引くプルリング
(「捨てる、その過程」)

この一説は、好きな短歌2つを引用しました。

「好きだった雨、雨だったあのころの日々、あのころの日々だった君」枡野浩一
「天使にはできないことをしたあとで音を重ねて引くプルリング」穂村弘

穂村弘の短歌はなんだか詳細をものすごく克明に想像できて、「天使にはできないことをしたあとで」ふわっとあくびしながら目を合わさずもたれるふたり、喉乾いたねなんて言う言葉もなく冷蔵庫へ歩くぺたりとした足音、やっぱり足が大きいな、なんてぼんやり見つめる瞳、手渡される冷たいビールの缶、手で転がすには冷たすぎる缶、どちらからともなく音が重なるプルリング、とシーンのディティールがとにかく膨らんでしまったのでこの場面はもっと別の機会に掘り下げてみたいです。

最後に、文章の随所に出てくる
「花に嵐のたとえもあるさ」
「さようならだけが人生だ」
「また来る春は何だろう」
「花に嵐はもろかった」
について。
実はこの部分にはながーい引用の歴史があるのです。笑

唐の時代の詩人・于武陵が書いた「勧酒」という漢詩が大元ネタ。この詩の中にこんな一節があります。

花発多風雨 人生足別離
⇒花が咲くと、風雨が吹き荒れる。人生も同じもので、別れがつきものなんだよ
(于武陵「勧酒」)

この詩を、『山椒魚』でも有名な井伏鱒二はこう訳しました。

花に嵐のたとへもあるぞ
「サヨナラ」だけが人生だ

この井伏鱒二の詩を受けて、寺山修司は「幸福が遠すぎたら」という詩を書きました。

さよならだけが人生ならば
また来る春は何だろう 
はるかなはるかな地の果てに
咲いている野の百合何だろう
(中略)
さよならだけが人生ならば 
人生なんかいりません

どうですかこのめくるめく引用、改変の歴史!!!すごい。于武陵の詩が「別れのある人生、それもまた一興」的なオトナさを感じさせるとすれば、井伏鱒二の訳は「結局人みな別れ」という諦念を感じさせるし、寺山修司にいたってはそれを蹴り飛ばすような純粋さで「人生がそんなに悲しいわけないんだ!」ときらめいているように見えます。そんな先人たちが作り上げた「花に嵐のたとえもあるさ⇒さようならだけが人生だ⇒ならまた来る春は何だろう」のサイクルの上に、「でも花に嵐はもろかった」と悲しく原点回帰してみました。

かなり長いですが、意識的に引用・改変を行ったのはこれらの部分です。多い。もし興味が湧いたら寺山修司、読んでね。笑

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