「察する」のはもうやめた
今回は、イギリスに行って夫と出会ってから変わった考え方のお話。
以前は、私は「自分の考えていることを察して欲しい」タイプの人間でした。自分が「こうして欲しい」と思ってもきっと察してくれると思って、言わずにいて相手に勝手に悶々としていました。
日本では「察して動く」ことを学校教育などで求められる気がするのですが、それを他人にも求めていたわけです。
でも、イギリスに行き、今の夫と出会い付き合うようになって、その「察する」「察してもらう」という概念がないことに気づいたのです。
例えば、彼が紅茶を淹れる時に、私にも飲むか声をかけてくれないかな、とか。(要するに自分も飲みたい)
でも、一回何かで喧嘩して、「私が何をして欲しいかを想像して、声をかけて欲しいことがある」というようなことを言った時に、言われたんです。「(私の気持ちは)言ってくれなきゃ分からない」と。
ハッとしました。
そりゃそうだ。赤の他人で、過ごしてきた文化、環境も違うのに、察してもらうなんて無理、と。ましてやそれを求めるなど酷というか、理不尽だと。
それからは、やって欲しいこと、知っていて欲しいことは、小さいことでも伝えるようになりました。
毎回伝えないといけない、というのが「面倒くさそう」とか、察してくれないなんて「思いやりがない」と思う方もいるかもしれません。
でも、逆に、「前はやってくれたのに今日はやってくれないの?」とか「いつになったらやってくれるの?」といった悶々とした気持ちとおさらばできたので、私は気持ちがとても楽になったのです。
そして、私は夫がイギリス人だったというのが気付きのきっかけでしたが、これはお互いが日本人同士でも、家族であっても同じなのではないかと思います。なぜって、みんなそれぞれ別の人間で、好きなものも得意なものも、生きてきた時間もみんな違うから。
ひとりひとりが別の人間だということを認識して、自分とは違う考え方を持っていることを前提に、互いの思っていることを伝え合って確認し合う方が、きっと建設的な関係を築けると私は思っています。
もし昔の私のような、「察してほしい」と悶々としている方がいらっしゃったら、少しでも参考になれば嬉しいです。
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