燕

なぜ人々はタイムラインで情報を口を開けて待ってるのか

「誰も教えてくれなかった」という人って多いじゃないですか。

大学でも、パソコンの使い方教えてくれてないのにいきなりパソコン使わせるなよ、という風潮があり、その通りだなあ、と思いつつ、「自分で調べないのか?」というのは疑ったほうがいいなと思っています。

よく見るのは、「Excelでグラフが作れません」というケースや、「そんなショートカットあったんだ」といっているケース、「パワポでチラシが作れません」(※画像化すればよい)みたいに、世界的ソフト、ハードの便利機能を知らないケースなどです。

これらを見ていると、こんな機能ないかなーとググる習慣がなかったり、授業で言ってくれるまで待ってることがよくあります。

ググればいいのに、もったいないことをしているなーと思ったりすることがあるのですが、なぜこんなに受け身なのかを考えてみたところ・・・。

理由は2つあるのかなあ、と思いました。

それは、「いままで学校で受け身の授業を受けていた」ということと「大学(会社)も高校気分で通っている」です。

後半で解説しますが、Twitterが日本で流行る理由とか、話題書しか読まない人にも通じているかと思います。

①いままで学校で受け身の授業を受けていた説

学校の授業は受け身すぎる、という話があります。

なんかみんな「これからはアクティブラーニングだ!」と思いがちなんですが、「これ自分で調べてこいよー、さあ今からこれ考えろー」は受け身ですよね。

上記の記事によると、

「能動的学習というのは、将来やりたいことがありその道に進むために行う勉強、自分が学びたいことを学ぶ勉強のことです。少しわかりやすく説明すると、特に理由もないのにとりあえず高校に行くために勉強する子はどんどん減ってきます。一方将来やりたいことがあり、そのための通過点として高校に行く必要があるから勉強する子は、今まで通り学校で勉強を頑張ると思います。」

ほう、なるほどです。

僕自身の経験からしてみても、自分のやりたいことのために能動的に調べることは少なかった感じがします。自分で調べてくる学習がなかったり、大学に入って初めて図書館で調べものをした、など。

Google検索、パソコンが出る前から、図書館で書籍なんて検索できたのですが、大学に入って初めて図書館を使った、という人は多いようです。かくいう僕も。

そもそも、日本の若者は携帯ゲームの所有率は高いのに、自分のパソコンを持っていない、という傾向があるらしいです。

僕なんかは、パソコンを大学生になって買って以来、今もこうして愛用してるんですが、最初は「教えてないくせにいきなりパソコン使えってなんだよ」と思ってました。

別に「自分でググらねえ奴は情弱!一生搾取されとけ!」みたいなよくある話じゃなくて、自然とそうなっちゃったわけです。社会的背景の問題だよね、という感じです。

②大学(会社)も高校気分で通っている説

次にあるのが、大学(会社)もいままでの学校の延長気分で通っているため、知らなかったことがあったときに、「誰も教えてくれなかった」と他責にしちゃうケースがよくあります。

しかし、本当は、YouTubeでいうところの「自分で検索すべきものを、親切でYouTubeがレコメンド(あなたへのおすすめ)してくれてた」けど、「レコメンド機能がなくなって、検索能力のないまま生きてきた」

つまり、教えてもらうことに慣れすぎて、教えてもらうことは当然だと認識してしまう、というケースです。

たとえば、大学(会社)にはいったら、急に誰も教えてくれなくなったぞ、Excelの使い方なんて知らないぞ、理由はなんだ?そうだ、大学(会社)が教えてくれないからだ、「教えるのは当然、義務を全うせよ」という考えになっちゃう人がいます。

もったいないですね。

こうなってしまうと、よくあるのは、受動的に情報が入ってくる「Twitter」が大好きになっていくことです。

教室みたいで嬉しいですね、座っとけば情報が入ってくる、Twitter先生が教えてくれる、懐かしいこのやすらぎ

Twitterは日本で特にユーザー数が多いようです。

加えて、うろ覚えなのですが、「流れてくるようなツイートはツイート数上位○○%のツイート、実質見てるだけの人が大半」というのがあります。

「①日本でTwitterユーザー数は異常、②ほとんどのひとは見てるだけ」ということは、ググるよりタイムラインで情報を待ってる人が多いのかなーと。

【余談】「話題書だけ読む」人も「ググらない」と同じようなもの

で、「人々がTwitterで口を開けて情報を待ってる」のは分かりました。

これはこれでいいんですが、Twitterで口開けて待ってても情報を得たことによる効果はあまりでないと思うんですよね。

ほしかった情報じゃないですし、勝手にインプットさせられたわけで、基本的に役に立たないです。

Twitterだけ、というのが問題で、情報獲得手段は複数あり、それらをバランスよく使えるのが重要、というわけです。

GoogleとTwitterは有名ですが、それでも偏っていて、そこに本や教授、先輩、後輩も足してほしいのです。

これを考えると「本を読む」ということはみんな意識しはじめるのですが、結局「新しい本が出てき次第読む」っていう、話題書版Twitterに変わっただけみたいなのが多いのかなと。

タイムラインに話題書の要約文が流れてきてるイメージです。意識高い系Twitterって感じです。

こうなると逆に、「能動的だな自分は」という錯覚をおこして、より受動から抜け出す見込みがなくなる、なんてこともありそう。

そして、このあたりの、能動的に本を選ぶというのは、本を読む習慣がつく前はやりづらかったりします。

新しい本はやっぱり面白いですし、とっつきやすい。古い本は絵も古くて読む気失せます。

「話題書を見るな」なんてことはなくて、ある程度目を通せるような読書量は前提に、「自分の課題を解決する本を能動的に探せない」のはもったいないなーと。

ぼくの事例

たとえば、僕は意識高い系で、大学入試が終わり次第「大学生がすべきこと」みたいな動画を見て、その中で「本を読め」と「言われたので」話題書ばっかり読み漁ってました。

でも、自分で意識高い系なイベントに顔を出すようになると、みんなホリエモンと同じような事を言ってることに気づきました。

「この人たち中にちゃんと人間入ってるのかな?」と真面目に感じました。

「みんなホリエモンとかがなんでその結論に至ったか考えてなくない?全く疑わないってどうなの?」と考えるようになりました。

というのも「自分の頭で考えろ」というどの本にも共通のことだけは頭にはいってたので、「これからは○○だ」とか、「A.I.が来るよねえ」とかにたいして、「○○じゃなくて△△かもよ」、「A.I.って昔っからあるじゃん」とか言ってると、ことごとく何も返ってこないっていうことが分かってくるわけです。

なので、「話題書の結論だけさらって、過程を読んでない」ことに気づいた訳です。そういう集まりに顔を出さなかったら気づかなかったかもしれません。

あと、最近はやりの哲学とかリベラルアーツなんかも、哲学者が出した答えだけ覚えているパターンもよくあります。

で、その答えが出た過程を見ずに、「あの人がこう言ってた」「あの記事いわく、こうなるらしい」と言って「あなたはどう考えるの?」と聞かれると困ってしまう。

要は、「能動的になったつもりで、結局受動的になってるケースがある」と思いました。(というかほとんどの人がホリエモン教の伝道師みたいになってる)

「キリストとかいう人、言ってること矛盾してね?」となれ、みたいなのがホリエモンの思考だと思うんですが、弟子たちには伝わってないようです。

(クリスチャンの方ごめんなさい、ブッダとかで読み替えてください、仏教の方はもうなんか別のものでお願いします)

※年末に本棚の写真をSNSにあげるひとは多かったけど、話題書しか置いてないのが目立ってた

おわりに

「教えてもらえるまで待ってる」人って多くて、本を読む人もTwitterで情報を待ってるケース多いよなー、もったいないなーと思ったので、書いてみました。

自分で考えない意識高い系っているよなあって。例えば、落合陽一の真似してグミ食べるみたいな。

(※意識が低い人、意識高い系を笑う人よりずっと良いと思うし、せめてなけなしの意識ぐらい高く持てよってよく思うし、いまだに自分もそうなりがちだし、反省してます。)

でも本当に考えるべきは、なぜあの人がグミという結論に至ったのかです。

その過程を考えることが能動的、考えずにグミ食べるのは受動的です。

と、思っています。

いつもありがとうございます。ツイッターでも情報発信してます!ぜひフォローしてください。