#172_【近代化遺産】太平洋戦争期の砲台を紹介する前に
先月、日清・日露戦争期、対馬に造られた砲台を集中的に紹介しましたが、ざっくり見積もっても半分くらいかどうかで、実はまだまだありますf^_^;)。
このまま同時期のものを取り上げつづけても良かったのですが、建物の雰囲気が似ており区別しにくそうな気がしましたので、このあとはいったん時代をくだり、太平洋戦争前に建造された砲台を取り上げたいと思います。
対馬の砲台と一口に言っても、日清・日露戦争期と太平洋戦争期では、与えられた役割が大きく変わったため、かなり異質な変様を遂げています。
もしかしますと、人によって、明治期のが良い、昭和のほうが良い、と意見が分かれるかもしれません。
これから太平洋戦争前に建造された砲台を紹介する前に、なぜそのように変化したのかという軍事的背景をご紹介していきたいと思います。
建物のビジュアルにしか興味が無いという方は、無理に読まなくても構いません。
日露戦争後の対外戦略
日露戦争の終結により、遼東半島の一部と朝鮮半島が日本の統治下に置かれ、それらを足掛かりにさらに大陸への勢力拡大を目指すようになります。
それでは、対馬の位置付けはどうなったでしょうか。
過去記事でも触れましたが、対馬は最前線ではなくなったため、重要度が下がり、竹敷要港部は廃止、ほとんどの砲台はそれを護ることが役割であったため、除籍となります。
兵士も無限ではありませんから、仕方ないですね。
外交や対外戦略の変化
しかし、第一次世界大戦後、風向きが変わります。
終戦後も軍拡競争が続き、もはや歯止めが利かなくなる状況になったことから、戦艦等の建造や保有に制限を加えるワシントン海軍軍縮条約が1922(大正11)年に採択されます。
建造中の艦や余分な艦はキャンセル、または廃棄する羽目になるのですが、軍艦にはたくさんの兵器が搭載されていますので、大口径砲塔砲は陸上砲台に転用されます。
日清・日露戦争期における砲台の射程距離は10kmくらいだったそうですが、その時代になりますと30kmくらいになっていたそうです。
ガイド中に「射程距離が30kmくらい」と言いますと、気の利いたお客様から「朝鮮まで50kmあるから足りないじゃん」と言われますが、当時は対馬海峡の両岸が日本の領土ですから、朝鮮半島側にも同レベルの火砲を設置すれば、海峡を射程に収めることができるというわけです。
これは、対馬と朝鮮との間だけでなく、対馬と壱岐、壱岐と平戸という感じに砲台を組み合わせて設置し、海上を射程に収めていったようです。
ちなみに、現在韓国展望所がある場所には、かつて高射砲(対空砲)があったそうです。
また、昭和になりますと、航空機や潜水艦が発達し、要塞の整備計画が改められ、潜水艦制圧のため加農砲台を建設することが盛り込まれます。
昭和10年代には、ソ連のウラジオストックに数十隻の潜水艦が配備されていたそうですから、対馬海峡の両岸が日本の領土になったといえども、油断ならない状況だったのでしょう。
そこで、敵の潜水艦を浮上航行させないため、また自国艦船の安全航行を確保するため、15cm加農砲が新設されていきます。
また、対馬には、海軍の防備衛所や機雷なども設置されるようになります。
対馬には、周辺も含め6箇所防備衛所が造られたらしいという話を聞いたことありますが、現状私の情報源が陸の方だけですので、海のことも調べねばならないと感じます。
ということを踏まえて、この先太平洋戦争期に建造された砲台についてお読みいただけると幸いです(^^ )。
さいごに余談
対馬沖(日本海)海戦で旗艦の役割を担っていた戦艦三笠も、ワシントン海軍軍縮条約によって廃艦が決定されます。
最初は解体される予定でしたが、日露戦争での功績を讃えようと保存を求める動きが起こります。
第一線では、三笠よりも大型で高性能な戦艦が稼働していましたが、軍艦であることに変わりありませんので、戦闘の役に立たない状態にすることを条件に、記念艦としての保存が認められました。
米軍に接収された時期に、軍艦とはほど遠い姿になっていたそうですが、復元運動が高まり、現在では内部を見学することができます(有料)。
コンクリート詰めで固定されているのは、「船として動かしませんよ」という意思表示なのだそうです。
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