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ブルーチーズが食べたいと、デリカテッセンへ - 占い依存症 - 

夕方に近い午後、デリカテッセン(Delicatessen)に立ち寄ってロックフォールを買う。ブルーチーズの一種で、マイルドな塩味が特徴だ。そのあとパン屋でバゲットを買って事務所にもどる。コーヒーをいれながら、ナイフでバゲットを切って、そこに薄く切ったチーズをのせる。小腹がすいたときにはちょうどいい。
こう書くと優雅そうだけど、そうではない。雑然とした事務所のなかで、コーヒーもごちゃごちゃしたデスクの上で飲んでいる。それに面倒なときは近くのコンビニでサンドイッチを買ってくる。でもまぁ、ちょっと余裕があるときはブルーチーズ・バゲットにする。めったにしない贅沢だ。日本ではチーズは高級品ですからね。

フランスなど多くのヨーロッパの国では、朝の路上に市が立って、そこにはチーズ屋が店をだしていたりする。日本では見かけない光景だ。おまけに味見までさせてくれる。街角にはチーズ専門店があり、スーパーのような場所にもやはりチーズ屋がはいっている。値段も比較的手ごろだ。町の人たちは料理にあわせ、あるいは気分にあわせてチーズを選ぶ。

気持ちはすぐにドロドロのチーズへ

気持ちはチーズのようなものだ、と思う。
気分によってチーズの種類を選ぶという点ではまさにそうだけれど、日本にはそこまでのチーズ文化がない。ではどういうことかというと、もっと単純なこと。ふだんは硬いけれど、ちょっと熱を加えると粘着性がでてきて、ベトベトとくっつく。もっと熱すればドロドロになって、形を失ってしまう。特有の匂いもはなつ。

このドロドロしたものは執着で、そこから依存症が生まれてくる。あまた存在する依存の世界はそうである。もちろん恋愛もそうで、熱が加わりすぎると、溶けていくチーズのような様態を呈する。たがいに溶けあっているあいだはいいけれど、そういうわけにはいかない。どちらかが逃れようとすると、粘っこいものが糸を引く。

これはこれで味わい深いけれど、形が崩れるとどうも日常生活ではあつかいにくい。もちろんチーズの所有者である恋愛進行中または恋愛崩壊中の本人にしてみれば、大変困った事態におちいってしまう。熱くてさわれないし、なんにでもくっつき、匂いもきつくなってきている。
気持ち的には、もう苦しくて苦しくて死にたいほどだ、ということになる。恋愛心理のなかには、じつにたくさんのトラップが仕掛けられていて、うかつに近づけば、その罠にはまってしまう。逆にいえば、それだけ快楽が強いということだ。

脳のなかの中枢神経には、快楽に傾斜するシステムが組みこまれている。報酬系と呼ばれるもので、精神医学では「嗜癖」という言葉でこれを説明する。
むずかしい漢字をあてているが、要は心のなかにいちじるしい偏りが生まれ、そこから逃れられない状態をさしている。英語ではアディクション(addiction)という単語がつかわれる。いまでは嗜癖という日本語より、アディクションのほうが通じるだろう。

たとえばモノをほしがる気持ちは、欲望をうまく操った資本主義のトラップともいえる。マーケティングとは脳内神経系の模倣で、いかに報酬系を刺激するかという仕掛けの塊だ。消費者はふけることへの誘惑にたえずさらされ、市場はそれを誘導している。

ちょっとややこしい話になった。
でも、もうちょっとだけ続けよう。

アディクションには、ふたつのパターンがある。物質アディクションと過程アディクションというものだ。
物質アディクションというのは、文字どおり特定の物質を体内にとりこむみたいとい欲求から逃れられなくなった状態をさしている。酒やタバコ、麻薬などがその対象になりやすい。
もういっぽうの過程アディクションは、物質ではなくなんらかの行動にふけってしまう状態をさしている。一連の行動プロセスにおちいってしまう症状だ。ギャンブルから離れられない、ついつい買い物をしてしまう、暴力への衝動に歯止めがきかない、セックスへの欲求を断ち切れない、などなど。はからずも人は、なにかにアディクトしてしまう。

この言葉は「中毒」と訳すことができる。ただし厳密にいえば、中毒とは体内にとりこまれた毒物によってひき起こされる生理学的反応をさしている。アルコール中毒、薬物中毒、ニコチン中毒などと呼ばれるもので、精神ではなく、からだの内部が毒におかされる。したがって治療にさいしては、解毒と健康回復を主眼とする。

これにたいして、精神の場合は「依存症」という言葉がつかわれる。こちらはコントロール障害である。ややアーカイックな表現をつかうなら、「耽溺」という言葉が近いだろう。なにかにふけること、節度を忘れてのめりこむこと、欲望のままにさせておくことをそう呼ぶ。つまりドロドロのチーズ状態である。

感情難民となってしまった占い依存者

占いにやってくる人たち、つまりクライアントは、このドロドドロになったチーズを心のなかにかかえている場合がけっこう多い。原因はわかっている。けれども、意志の力ではどうにもならない。医者にいったところで、なかなか問題は解決しない。行き場所を失って、占い師のもとにたどり着くというケースもある。
いわば感情の難民なのだ。

これはいろいろな意味で、厄介な問題をはらんでいる。
占い師の多くは、まじめに、ときにはまじめすぎるほどに占いを研究し、クライアントに対応している。みずからの占術を磨き、クライアントの心配事についてその根源を探り、解決のためのアドバイスをおこなう。
ところが占いが難しいのは、あたればいいというものではない点だ。良い結果であればまだしも、悪い結果がでた場合は、これを告げたところで心配事の解決にはならない。むしろクライアントの病状は悪化するというケースも往々にしてある。

ここは意見のわかれるところだろう。占い師は医者ではない。治癒ではなく、鑑定が仕事だという人もいる。しかし、感情難民となった人に、「このままではあなたは危ない、だから立ちあがってそこを去りなさい」といっても、疲労困憊して動けない人もいる。
では心療内科や精神科を受診すればいいというだろう。たしかsにそうだ。しかし、それは心理的なハードルが高く、予約から受信までに結構な時間がかかったりする。もちろん精神科医や心理カウンセラーは一定の教育をうけ、ほとんどの人が一定水準以上の知識と技量を身につけている。その点、占い師は玉石混交だ。ただしクライアントがすぐにアクセスできて、自分が納得できる相手を探していけるという点は悪くないだろう。

チャット占いでアクセスしてきた女性のクライアントがいた。チャット占いでアクセスしてきた女性のクライアントがいた。これはインターネットやアプリを通じて占い師とテキストベースで話をし、鑑定や悩み相談をするサービスのことだ。
連絡をしてきた女性の相談内容は、離婚した元夫との復縁だった。離婚は心理的負担が大きいので、多くの場合なんらかの支えを必要とする。ところが、自分を支える仕事もなく、相談できる友人もいない人も少なからずいる。すがるような気持ちで占いに助けを求めてくる。それは安易だ、と断罪できるだろうか。

チャット占いにやってきた女性は、何人もの占い師をわたり歩いて、かなりのお金をつぎこんでいるらしい。こういうクライアントを、占いジプシーと呼んだりする。
ひとりの占い師の鑑定結果に満足できなず、みずからに期待にそった鑑定を求めて、さまざまな占い師に鑑定を依頼していく人たちのことだ。ジプシーとは移動生活を送る民族のことで、その様子をさまざまな占い師を転々とする様子にたとえたものである。すでに占い依存、占い中毒の症状がでているだろう。
ある占い師のもとでよい鑑定結果がでると、その占い師に依存してしまい、一日に何度も鑑定を依頼するという状態におちいることもある。

依存する頭をどうすればいいのか。。。

電話占いやチャット占いの場合、たがいの顔が見えず、いつどこからでもアクセスが可能だ。チャットの場合など、電車に乗っている最中でさえコミュニケートできる。ビジネスという観点からすれば、この利便性や秘匿性は大きな武器だ。クライアントを依存状態にすることで、収益の拡大がはかれる。占いの運営会社はとうぜん、そのチャンスを狙う。ビジネスなのだ。

「わたし、依存症かも」
と感じている人も少なくはないと思う。
けれども、やめられない。抜けだせない。
これでクライアントの気持ちが静まるのなら、意味がある。じっさい、話を聞いてもらうことでみずから命を絶ちたいほどの暗澹たる気分が緩和されたという人もいる。身近な人にほど、かえって相談はできないものだ。
けれども、手軽さは頭のなかの報酬系をいとも簡単に刺激して行動に移させる。報酬を得るためのハードルが低い。少なくとも低いように見せかけている。これは占いのせいというより、僕たちの暮らしている社会のシステムがどんどんそうなっているということだ。依存への仕掛けは、巧妙になっている。

チャット占いに訪れた女性には、状況を聞いたあと、彼女自身と元夫の性格を伝えたうえで、衝突した原因を具体例をそえて送ってみた。すると、まさにそのとおりだと思うとこたえてきた。それぞれに性格を変えることはできない。こうすればいいとわかっていても、それができなくて離婚というかたちにいたった。
鑑定の結果は、復縁は困難とでていた。けれども、それを直接的な言葉では伝えず、時間はかかるが改善点のポイントをまとめて、メッセージを送った。いい鑑定だったかどうかはわからない。彼女からは、サイト内にあるレビュー欄に、元気がでたとメッセージがはいっていた。でも、彼女はたぶんまた占い師を訪れるだろう。

僕はきょう、チーズを買いにはいかない。自制したのではない。わざわざでかけていくのが面倒だったからだ。コーヒーをいれて、それを飲みながら、冷蔵庫にいれてあるチョコーレートをとりだして、ひとかけら食べた。ひとかけらでじゅうぶんだ。

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