大人になったら、ラジオをやってみたいと思うけど
ラジオをやってみたい!
最近考えていることである。アーティストや作家などのラジオを聴いて、自分もやってみたいと思った。理由は、「なんか、楽しそうだから。」
今日のPodcastには「素人」と呼ばれるような人がたくさんいて、そういう「一般人」みたいな人のお話を聞くのもすごく楽しい。みんなそれぞれのストーリーがあるし、その界隈の人しか語れない、わからないみたいなことがあって、それぞれの環境で育った感性があって、お話もすごく興味深いものばかりだからである。もちろん一般人よりは、何十万人というフォロワーがいるような芸能人の方が説得力はあるかもしれないけど、私はそういう一般人のお話でも、別にそこまで大差ないと思っている。「その人しか語れない」という点では、両者は同じだからだ。
すごく難しいことを話そうとしなくても、ボキャブラリーが壊滅的で、日本語がちょっと変な私でさえも、「お話上手だよね」と周りに(たまに)言われるくらいだから、結構話すことは書くことよりもハードルが低いのかもしれない、と感じることもある。
ラジオの面白いところはその「人」が最大限に出るという点だ。その人の話し方とか、口癖を発見できる。そして新しい情報を得ることによって何かしら学べたり、得られる要素が多い。でもだからといって、ラジオのクオリティが高くある必要はなくて、ご飯を作る際の聞き流しとして楽しんでもいいわけだし、寝れない夜のお供として聴くこともできる。そこで話し合われる内容や情報の程度が精巧なものである必要はない。ラジオは短いもので30分、長いもので2時間とかそれ以上だろう。何かを語りつくすには十分な時間が担保されていて、かつアジェンダ的な”お題”はある一定のラジオの枠組みを作るようなものでしかない。話題をどう飛躍させるか、どこを膨らませるかはパーソナリティの自由であって、「これは話さないといけない」と決まっているディスカッションとは異なり自由度が高い。だから、「この人の話し方、別に難しい言葉を使っているとか、内容がすごく濃いわけじゃないけど、なんだか刺さるな。」みたいな現象がよく起こる。
自分もそんな風にして、一素人としてそういうことをやってみたいと思う。もしもやるなら、自分も何かを学べるように毎回違う自分の友達とかを呼んだりして、何かを語り合ってみたい。別に何か結論や結果を出す必要性に囚われず、ただ"話す"だけの空間を創りたい。
「大した話じゃないんです。メモとか取らず、むしろ集中せず、惰性で聞いてください」くらいのスタンスのラジオをやりたい。
「公」に出すことの難しさ
だが、それでも言葉にも「重み」というものは存在していて、多くを語れば語るほど気を付けなければいけなかったりもする。あとから言っていることに矛盾が生まれてしまったりとか、途中から何を言っているかわからなくなったりとか、話が飛躍しすぎるとか。笑
そして言葉や表現に関しては、その言葉を発する人自身の影響力を持っていればいるほど、言葉は慎重に選ばなければいけない。結局、その人の"素"が出てきそうな深夜ラジオも、結局はちゃんとした「ビジネス」であって、言って良い言葉と慎むべき表現がちゃんと決められていたり、そういう制約は結局ついてまわるものだ。
Public (公)の場で「ありのまま」をさらけだそうとすることはそう簡単なことではない。私自身もこのnoteをやり始めた時、知り合いの誰にも伝えずにひっそりと開設したinstagramのアカウントがあったが、もう数か月も投稿していないし、自分の投稿を「誰かに見てほしい」という欲望さえも、もはやない。
そして、結局そういった裏アカウントですらも、素性を隠すために多くを語ることができなかったり、自分の顔を出したりすることを控えたくなるものだ。「ありのままの自分」を発信するために作ったいわゆる別アカでさえ、等身大の自分なんかを世間に表現することはできず、そしてそういった一個人のプライベートを、世間に"出す"ことで何かが解決したり、うまれるわけではない。もちろんこれは人によって考え方は異なるだろう。私はインターネットで(今のところ)食べていく気はないし、誰かに何かを伝えるほどの強い熱意を持っているわけではなくて、ただ好きでたまに「書きたい」と思うからこのnoteも続けているわけであって、たくさんフォロワーが欲しいとか、自分の発言の正当性を図るためにいいねの数をもってして確かめたいとか、そういうことではない。
私がやってみたいラジオも結局「よのなか」に出てしまえば、もはやそれは一部人工的な要素が混在するもので、「100%やりたいようにはできない」みたいなところにぶち当たるのだと思う。だから簡単に言えば、気を付けてやんないといけない。素材の味だけでは、おいしく食べることが難しいように、結局「公」に出されている情報には、何かしらの添加物的なものがかかっていると思った方がよい。
結論
書いているうちに、この文章の終着点をどうしようかと迷ってしまったが、
別に言いたいことは特にない。すみません。
でも、そんな制約があってもラジオで誰かの声に耳を傾けることはすごく魅力的だと思うし、深夜ラジオも”商売”要素が全てなわけではない。公に出るからといってそこで語られているものが「すべて嘘」なわけではないし、むしろそういった要素は少ない。
聴くことによってどこか気持ちが癒されて、時々感化されたり、啓蒙したりして、得るものも確かにあるからこそ、音声のみのメディアは廃れないのだと思う。
今まで聴く専門であった「リスナー」の立場から、ラジオをつくる「パーソナリティ」になるだけでも、同じような心持で取り組めるものではない。始めるにしてもちゃんとしたルール的なものがないと、物事はうまく進まないことを理解した上で、でもその制約があってでも「やってみたいなぁ」と思う、一般大学生の小さな夢のお話でした。