あーきょうも子どもがなかなか学校にいってくれないし、あーもーだりーわ……と、おもいつつ、2時間目からいくもん!とかゆってるけど、行く行く詐欺になるなよ、と、まあ、家から出さないといけない時間までの時間つぶしにスマホ開いたら、トップのほうのニュースに、
今日の仕事は、
楽しみですか。
という広告が1日で撤去された、というのがでてて、つい反応してしまいました。
さっそく子どもに見せて、「ねぇねぇ、《今日の学校は、楽しみですか?》」とかおちょくって遊んでしまいましたが。
いやー、実はですね、去年度の3学期から……つまり、今年に入ってからですね、ぽちぽちしか登校してないのですよ。しかも登校した日のほぼ全部遅刻ですよ、遅刻。
それでも2学期に入って、ちょっと登校に意欲的になって、体育祭が終わって気が楽になったか、1時間目からいける日が出現しはじめたところなんですよね。
もしかしてこれはある種の社会批判では!とかと、最近、政治とか経済とか語ってみたい年ごろになった子どもは面白がって、私は私で、でも、月曜日にコレは最悪ちゃう?だって、子どもの不登校は、「月曜行けん」からはじまるがで〜、とかやりつつ、なんだかんだいってちゃんと2時間目に間にあうように家を出てくれてよかった。
この広告見せたら、「今日はやっぱり学校行かん!」といいだすのではないかと、危惧をしつつ、でも、どういう感想をもつか知りたくて見せてしまったのですが。
とにかく、いってくれてよかった。もう、このくらいでもダメージにならないくらい、状態がよくなっているのでしょうね。
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《追記》 これを投稿した翌日、「今日の〜」の広告はデジタルサイネージで、ニュース記事中の写真のように、ひとつの文言が固定されていたわけではなく、このあとに、仕事と働きがいを問い直すような文言も続いて流れていたこと、また、天気予報やニュース速報も交互に流されていた、ということを知りました。
なので、以下の文章は、「ネットニュース上の写真のインパクトが強すぎて、いろいろ考えてしまったひとの反応」としてお読みくださればさいわいです。
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子どもがいったあと、このコピーのこの写真の何がこんなにイヤなんだろう、としみじみ考えて見ました。
別のネットニュースには、「今日の仕事は、楽しみですか。」ではない広告がずらーっと表示されている写真が出てました。
それを見た瞬間、ほっと肩の力が抜けました。これがいいと思いました。これでいいと思いました。そしていかに、「今日の仕事は、楽しみですか。」というモノクロのコピーがずらーっとならんだ品川駅の写真から、言葉にならぬ圧を受け、苦しかったのか、ということが理解されました。
さらに、「今日の仕事は、楽しみですか。」というコピーを真ん中に、ばんっ、と載せた新聞広告を掲載しているニュースもありました。これはこれでいい、と思いました。自分は仕事を楽しめているか、深く静かに反省することをうながされているような気持ちになりました。品川駅のより、ずっとぐっと深く、染み込んでくる感じがしました。
「これを見たら心が折れてその場に座りこんで泣く」というようなコメントには、私も一緒に座り込んで泣いてしまいました。そんなような絵がはっきりと見えました。涙がにじみそうでした。いまも、こう書きながら、涙をこらえています。
ふとんを干したり、洗濯物を干したりしながら、そうだよ、仕事は楽しみだったよ、でも楽しめなかったよ……という答えが染み出してきました。
障害者の作業所で利用者さんと助け合いながら仕事できるのは、ほんとに楽しかった。いまでも至福の時間であった思います。
だけど、仕事は過密でした。給料はごく僅かでした。これだけ働いているのに、利用者さんがもらっている生活保護のお金とそう大差ない金額なのだ、と思うと、むなしかったです。土日、子どもの相手もできないくらい疲れ果て、ただ寝るだけ。なのに、利用者さんには、目いっぱいのサービスをしないといけない。うちの子どもには、だれもサービスしてくれないのに。楽しみなはずの土日に、親にほたくられているのに。
そしてその結果、過労で心身をだめにして、いまにいたっています。
なんかわかってないな、このひと、みたいな、プロのライターさんのコメントも見ました。
あんまりこんなことをわざわざ書くのは上品なこととはいえませんが、そのひと、以前、noteのおすすめで見て、フォローしようかどうしようかかなり迷ったひとでした。けっきょく、役に立つことを書いてくれそうなひとだけど、なんかちがう、なんか違和感があって気持ち悪い……ええとこれは、東北のひとのよくつかう「エズい」という感覚なのだとおもいます……だから、フォローは見送ったひとでした。どんなひと、というよりも、なんか謎の違和感がすごかったひと、というので強く印象づいていたひとでした。その違和感の正体がつかめなかったからこそ、覚えていたひとでした。
そんなわけで、あのときのわたしの野生の勘もすてたもんじゃなかったな、とちょっと悦に入ったりしましたが、つまり、そのときなにが違和感だったかというと、この広告のような「人の足を踏んでいるのに気がつかず、ポジティブをさけぶ」ようなところだったのだ、ということがいま明らかになりました。
マルクス「今日の仕事は、楽しみですか。」
というツイッターが、いちばんしっくりきました。このコピーに売りがあるとしたら、「労働の疎外」について問いかけることができること、と私も考えていたので、おもわず快哉をあげてしまいました。
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駅頭に大量に押し寄せる「今日の仕事は、楽しみですか。」のなにがイヤなんだろう。
それはもう、「はい、楽しみです!」と答える余地しかないからではないか。だから、「いいえ、楽しみではありません……」とうつむいて答えるほかないひとを苦しめる、どころか、苦しみを倍加させるのではないか。
映画館の前で「今日の映画は、楽しみですか」、デート前に「今日のデートは、楽しみですか」、そんなときに使う、これは構文です。
これがもし、すこしばかりほかの言葉がつかわれていたら……と考えてみました。
「今日の仕事も、楽しみですか?」
「今日の仕事は、楽しいですか?」
駅の広告にもしこう問われたら、私はたぶん、そのまま座り込んで泣いてしまいます。だけどそれは、また別の涙を流しながらです。「いいえ、楽しみではありません。たぶん今日も楽しくありません。どうか助けてください!」と。
前者の問いは、「楽しみなときもありますが、毎日楽しみというわけではありません」という、正直な答えをすることをゆるしてくれます。後者の問いは、「昨日は楽しかったけど、今日はそうではないかもしれません。でも、明日になったら、また楽しみになるかもしれません」と素直な気持ちを答えることが可能です。
問われたことに嘘をつかなくてすむ。いつもは口にできない本音を、そっと漏らすことができる。人間はそれだけで、気持ちが軽くなります。
「今日の仕事は、楽しみですか。」
これがたったひとつだけなら、まだましだったのかもしれない。それがいくつもあると、それすべてにたぶん人間は無意識のうちに返答してしまうから。「はい、楽しみです!」と何度も返答するのはポジティブなひとでも、そのうちエネルギーを消耗することでしょう。ポジティブは、あまりにすぎると疲れませんか? それならなおさら、幾度も幾度も「いいえ、楽しみではありません……」との返答を強要されるひとにとったら。それは、「仕事を楽しめない自分は駄目なやつ」との呪いを朝から刷り込みまくることになる。
しかも、つらいひとにとってはもっともつらい、月曜日の朝から。出勤途上で。
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学校の最寄り駅で、月曜日から、「今日の学校は、楽しみですか。」というコピーが羅列されていたら。学校のへい、いちいちに、校門にいたるまで、「今日の学校は、楽しみですか。」というポスターがはりめぐらされていたら。
ましてやそれがもしかして、9月1日の朝だったとしたら。
残酷すぎる。とすぐにひとは気がつくのでしょうが。
駅で、大人に向けてのものだと、その残酷さに気がつけなくなるのは、つらい思いをかかえて出勤しているひともいる、ということじたいがみえてないか、しっていても軽視しているか、どちらかなのでしょう。もしくは、大人は仕事を楽しみとしていてあたりまえ、という、謎のステレオタイプに世界観がおかされているからなのでしょうか。
ちがうでしょう。仕事は楽しみのはずなのに、個人の力ではいかんともしがたいあまりにもおおきななにかがそれを邪魔しているのでしょうに。仕事を人生の楽しみとするための物質的条件が欠落している。もしくは、物質的なところからたてなおさねばもうどしようもならぬのだ、という視点が欠落している。それが日本の現状でしょうに。
そこを問わずに個人に問う。問う。問う。問いまくる。逃げようもなく、駅のコピーが問いまくる。これもひとつの自己責任論ではないですか。
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「今日がどうなるかわからないけど、楽しいにこしたことないよね」と。それがあのコピーをみたみんながいちばんこたえてみたかった、とおもう、自然体の回答だったのではないでしょうか。
どんなつらい境涯でも前を向く。前を向こうと試みる。この楽天性は、生物としての人間にもとからそなわる資質のはずです。
だけど試みが、そのたびごとに潰されると、ひとは病み、無力さだけが残ります。
「できたら今日も、仕事を楽しみたいな……楽しめたらいいな」という思いを月曜日の朝に、よのひとびとにひとしくあたえるコピーだったら。日曜日のサザエさんを見てからしょんぼりとしていた気持ちを、あかるく照らせたことだろうに。
「今日も仕事を、楽しみたいよ!」
コピーをつくるなら、こんな気持ちにこたえてください。
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《追記》 「今日の〜」広告が固定されものではなく、表示時間にして数秒のものだった、とわかったとき、こころの底から、あぁ、よかった……と安堵しました。そのくらい、メンタルに対してはマイナスのインパクトが強い写真でした(そんな写真を、なぜだかひとの気持ちを逆なでするようなコメントとともにツイートしていた広告主の社長さんは、正直、センスがないのでは? と思います)。
それはさておき、このコピーが固定でなかったことと、どうも、品川駅を利用する当事者が問題提起したわけではなさそうだ、ということを知ったとき、この投稿を取り下げようかな、とも考えました。
でも、やめました。たぶん、この出来事は今後、広告のあり方や、ネットの反応のし方、ニュースの作り方、という文脈で処理していかれるだろうな、と思ったからです。
私がこの出来事に反応したのはそうではなく、この世には、健康で元気なひとばかりではなく、しんどさをかかえたままいまを生きているひともいるのだ、ということを、精神障害の手帳と不登校の子どもをもつ当事者として書き込んでおきたかったからです。
それに、「今日の〜」のコピーが大量に羅列された写真が大きな反応をひき起こしたのは、「メンタル的にしんどい思いをしているひとを思いやれないような言説はやめよう」という社会的合意がそれなりに醸成されているからではないでしょうか。あのヤフーコメントですらまともで……ていうか、広告主への罵倒や上から目線の決めつけ、みたいなマウントを取りに行くコメントが場違いに感じられるほど、コメ主の実感や思いやりの気持ちを感じられるものが多かったので、びっくりしてます。そして、メンタルがやられているひとをちゃんと思いやってやれ、と考えているひとは意外におおいのだな、とうつの当事者として、ほっとする思いをしました。
この出来事が、よわさやつらさをかかえたひとを内包して生きていくような、あたたかい社会の形成の糧となりますように。