あなたがなにかひとつ手放すとしたら、何を手放しますか。【問いを贈ろう】9月19日
祝日だけど、「問い」はお休みでなかった、PICES の問いを贈ろうキャンペーン。昨日は自主休日ってことにして、今回も勝手ながら、note から参加してみたいとおもいます。
・◇・◇・◇・
9月19日の「問い」
……食物アレルギーとか、うつになったりとかで、人生ずいぶんいろいろ手放しましたよ……これ以上、なにを手放せと……ううッ(´;ω;`)
とかってゆう泣きごとはともかく。
そもそもなにか持ってないと手放せないんだよな。
それと、あ、なんかけっこーいろいろ持ってたわ、ってことに気がついてないと、やっぱり、手放せないんだよな。
こう考えると、手放す、って口でいうほど簡単じゃないんだなぁ……。
ということで、うつになって気がついたことの中でも、コレ、手放すとオススメだよ、っていうものを書いてみたいと思います。
それはね、ズバリ、
頭脳で立って歩くようなことはやめる
ということ。
うむ。
端的にいうなればこうなんだけど、文学的すぎてわけわかりにくいよね。
もうすこし具体的にいうと、
とでもなるのかな。
① は、私たちは「人間である」と同時に、「とあるサルの一種である」ということも忘れないようにしよう、ということ。
ていうかむしろ、私たちの存在のベースは「とあるサルの一種である」ということにあり、「人間である」というのは、その上にのっかってるオプション、ぐらいにおもってたほうがいいんじゃないか、っておもってる。
「人間である」部分は、思考とか想像とか推測とか、この世に無い像を生み出せる、という脳の機能が主として担っていると思う。
「とあるサルの一種である」部分は、肉体とか、脳にすでに備わってるプログラムとか、なんだかんだいっても地球によっかかりながら生存しているとか、そんな、生き物としてどうよ、みたいなこと。
② は、「自分」というのは、からだ全体でみたとき、肉体のうちの脳といういち臓器に宿る機能で、さらに脳の機能のうちのほんの一部の機能である、ことを自覚しよう、ということ。
身体の各所は、「自分」がどう思おうと、勝手に働いてくれている。心臓の鼓動や胃腸の消化活動なんかそうだよね。そして、お腹が空いたら食べたくなるし、疲れたら眠くなる、そんなふうにして、生存に必要な活動を「自分」にうながしてくれている。
だけど、この「自分」っていうのはバカなところがあって、お腹いっぱいなのに甘い物を欲張って食べたり、真夜中に寝落ちするまでスマホをやめられなかったり、健全な生存のために必要な活動を邪魔したりする。
「自分」は身体のなかのちっぽけな一部。
だから、身体を「自分」に従わせるのではなく、「自分」を生き物としての身体の要求に寄り添わせる。そんなふうに生きたほうが、まちがいなくヘルシーなのではないか、とおもってる。
頭脳で立って歩くようなことはやめる、というのは、つまり、私たちはそもそも生き物であって、生き物であることに耳を澄ましながら生きていこう、それを「人間」っていう観念とか「自分」とかいうもので、必要以上に曇らせて、見えなくするのはやめよう、ということにでもなるだろうか。
断捨理とか、マインドフルネスとか、手放すことについてはいろんなセオリーがあると思うんだけど、結局、どれしも、どうやったら頭脳で立って歩くようなことをやめられるか、をいろいろな角度から言い換えたり、具体的な実践に落とし込んでるだけじゃないか、って気がしてる。
それどころか、もしかしたら、悟り、って偉いお坊さんだけが得られる神秘現象でもなんでもなくって、こんなふうに「人間って、生き物としてどうよ?」って原点に徹底的にたちかえったら、誰でも得られたりするんじゃないかなぁ、なんてすらおもうときもある。
「人間である以前に生き物である」っていうことを、もうこれ以上、置き去りにしたくないな、って思う。
自分のメンタルヘルスケアのために、っていうのはもちろんだけど、これまでに蓄積したの社会のひずみを直すためにも、これ以上の地球環境の悪化を防ぐためにも、大切な軸になるとおもうんだよね。
いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。