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今日、新しく知ったことはありますか。【問いを贈ろう】9月5日

 今回も、PICES の問いを贈ろうキャンペーンに、勝手ながら note から参加してみたいとおもいます。

 このキャンペーン、去年は、1日1問い、というペースで展開していたようです。だけど、今年は、2日に1問い、という去年よりもゆっくりペースになっています。
 社会についての問いはずっしりくるので、2日間の猶予があることと、日曜日は問いがお休み、というのが、思索のゆとりと脳の休養となって、ありがたかったです。

 主催している NPO法人 PIECES は、「子どもの孤立を防ぐ」ことをテーマにしている団体のようです。
 それゆえ、キャンペーンで贈られる20の問いの種類は、自分を見つめ直すものから社会のあり方を考えるものまで、幅広いものとなっているようです。

 

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9月5日の「問い」

今日、新しく知ったことはありますか。

 むむっ……そんなにうまいこと新しい発見なんてないよ……。
 「みんなが苦手な昆虫Gはクローブのニオイをいやがるから、乾燥した実を紙や布に包んで要所要所に置くといい」っていうのが、目からウロコだったぐらい……とか困ってたら、つごうよく、こんな記事をみつけました。

 き、き、……き、

 キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

 なんかこれ、ずっともやもやしてたことの解答やん。ひさびさにきれーなヒット、キタで!

 

 記事の要点をざっくりまとめるとこんなかんじ、かな……。

 筆者の青木真兵さんの仕事は、就労移行支援。障害者が福祉的就労からふつーに社会に出て就職し、定着できるようになるための支援を行うことです。その支援活動のなかで、青木さんは支援の段階を2つの局面でとらえています。

 ① 「ケア期」。これは「失敗しても大丈夫」という安心感を育む局面。「失敗しても大丈夫」ときくと、「自分に自信をつける、ってことやな」とおもってしまうけど、青木さんは「失敗しても社会は自分を拒否しない」という安心感を育てることを重視しています。この安心感が、新しいこと、難しいことにチャレンジしよう、という気持ちの基盤となります。
 ② 「就労期」。青木さんのことばをかりると「自らの労働力によって社会とつながる方法を模索する」局面、要するに、適性をみきわめたりして、社会の一員として役にたてるようになっていく、ということです。

 人生や仕事を、ケア = 全人的に存在が肯定されること、と、就労 = 社会の中で役割をはたすこと、の2つの局面でとらえることは、障害者の就労支援に限ったことではなく、誰にでもあてはまること、と青木さんは考えています。
 そして、その例を「寅さん」の物語のなかに見出しています。

 この、「ケア」と「就労」の2つの局面にわけて考える、っていのが、めちゃくちゃストン!、とおちました。

 うちの子どもは今年度ずっと学校にいけてないのですが、思春期外来のお医者さんからは、「ささいなことでも出来たことがあれば、ほめてあげてください」とアドバイスされています。つまりこれって、《あなたのお子さんは「ケア期」の段階なので、まずは、とがめるよりもほめて、大丈夫という感覚を育ててあげてください。登校 = 「就労期」は、その次です》ってことだったんだ!
 それと、うちの子どもはちいさいころからものすごく、「ほめて!」「かわいい、ってゆって!」「だっこー!」と要求してくるのですが、それって、《お母さん、わたし「ケア期」だから、しっかり全人的肯定をしてちょーだい!》って、本能的にやってた、ってことだったんだ!

 それから、はなしはそれるけど、ついこないだ「朝食のパンをティッシュにおくのは、アリかナシか?」が論争になってたじゃないですか。アリと感じる人は、「就労 = 衛生的に食べられるという機能をはたせている」という局面に注目してて、ナシと感じる人は、「ケア = ちゃんとした食器を使うことで、食べる人を尊重する気持ちを表す」という局面を重視している、ととらえていくことも可能そうです。

 

 さて、青木さんはさらに、こんなことも述べています。これは、今の社会の歪みをとらえるうえで重要な視点だとおもうので、そのまま引用します(最重要と思われたポイントを、太字にしています)。

このように就労移行支援は、「ケア」と「就労」という「2つの原理」によって成り立っています。人間は理由などなくても存在してよいという「ケア的な部分」と、社会のなかで役に立つことで自分の存在をより明確にできる「就労的な部分」。どちらかだけでも人は苦しくなってしまいます。ただぼくが思うのは、健常者と言われる人は知らずしらず「就労的な部分」だけで生きていることに気がついているのかということ。いつのまにかぼくたちは、この世界に存在するための理由を求められている。だから就職活動に失敗したり、仕事を退職してしまうと、自分は無意味なのではないか、生きている意味などないのではないかと思ってしまう。しかし、そもそも生きることに理由など必要ありません。「2つの原理」で生きていると、この地平に立ち返ることができます。

 なるほど!

 子どもの不登校確定した瞬間に感じる、人生詰んだ_| ̄|○ il||li感は、子どもの人生を「就労的な部分 = 学校」だけでしか見てなかったからか!
 夫の子どもに対するまなざしや、夫から子どもへの声かけに、みょうにピントがズレている感じがするのは、なるほど、夫の世界からは「就労的な部分しか見えてないからか!

 また、前回の問いで消化不良でおわった、

 ケアされる方からは、世界がどう見えてるか?、っていう視点が、いたるところで欠落してないか?

 という私の疑問も、健常者の世界から「ケア的な部分」が欠落しているせい、ということで、うまく説明がつきそうです。

 さらに、その前の問い、

あなたの町の人は
どんな暮らしをしているでしょうか。

 これは、私たちひとりひとりが、お互いへの「ケア」の担い手になりませんか?、という呼びかけ、ととらえることもできそうです。

 

 おやおや。
 偶然だけど、各問いがうまいことリンクしました。
 これが本日最大の発見かもしれません!

 ……ということで、今回はおしまい。
 次回の問いにそなえて休息しま〜す。

 

 

#問いを贈ろう #障害者 #助け合い #社会 #働く #ケア

いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。