交響曲第5番【C. Nielsen】《私的北欧音楽館》
このヘッダー、ニールセンの交響曲第5番について書くときは、絶対これにする、って何年も前からきめてた写真です。「みんなのフォトギャラリー」をひらいた瞬間、これがあったことを電撃的におもいだしました。
よかったー!
これみてるだけで耳のなかで第1楽章のクライマックスが鳴り響いてきます。
それはさておき。
同時間帯に放送される日曜劇場の「日本沈没」に気をとられて、Eテレ「クラシック音楽館」のチェックをおこたってったら、なんと今夜放送の回が、ニールセンの第5番で、しかも、指揮がヘルベルト・ブロムシュテットさん!
感無量!!
生きててよかったー!!。゚(゚´Д`゚)゚。
ずっと、ずっと、機会があったら、最晩年のブロムシュテットさんのニールセンを聴きたいと思ってました。
念願叶いました!!(∩´∀`)∩
と、いうことで。
記事のタイトルは「第5番」ですが、なかみはヘルベルト・ブロムシュテットについて。
しかも、もうすでにエネルギー切れ……_(:3」∠)_…パタッ……を感じているので、要点だけ手短に。
① 見てるだけで目の悦びとなる指揮者
むかしはむしろ、音楽に対峙する厳しさが伝わってくる指揮者だったのですが。
クラシック音楽界の最長老となったいまのブロムシュテットさんから伝わってくるのは、
いまここで、音楽とともに在れることの喜び
です。そして、私は、テレビをとおしてですが、
あなたとともに歌えることの喜び
を感じています。
自分、長期の中断はありましたが、《N響アワー》の時代からEテレのクラシック番組をみてきましたが。こんな指揮者はついぞやいませんでした。
ブロムシュテットさんがオーケストラを指揮している。
目に映る事象はそれ以上でもそれ以下でもありませんが、ブロムシュテットさんが真に行っていることは、
いまここで歌うことの喜び
です。
おそらくブロムシュテットさんは、自分のからだのなかを流れる「生きる」という音楽を指揮し、目のまえの演奏者たちのからだが奏でる「生きる」という音楽を指揮し、黙して聴き耳をたてている聴衆たちが無意識のうちに唱和している「生きる」という音楽にすらも、指揮棒を振るっています。
まるで、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートの「ラデツキー行進曲」のようにですね。このアンコール曲は、最近では聴衆のほうを向いて手拍子のタイミングを指揮してくれる指揮者が増えてきたのですが、まさにそのような感じ。ブロムシュテットさんを見ていると、背中にも目があって、聴衆にも向かって指揮棒を振るっていてくれているような気がしてきます。
これは DR交響楽団(DRSO)のニューイヤー・コンサートの「ラデツキー行進曲」です。じつはウィーン・フィルのよりも DR交響楽団のラデツキーのほうが、私は好きです。お客さんが遠慮なくグイグイ参加してくる(なんだけど、無遠慮とかズケズケじゃなくて、思いやりと配慮に満ちてるのよ!)感じとか、打楽器グループの仲よすぎな感じとか、見てるだけで楽しくなっちゃう!(≧∀≦)
ニューイヤー・コンサートにかぎらず、DR交響楽団の演奏会自体が、指揮者、オーケストラ、聴衆の一体感や会場全体に流れる温かさとか、特有の空気感があります。たぶんこれが「ヒュッゲ」という空気なのだと思っています。
最近のブロムシュテットさんは、そこで指揮棒を振っているだけで、DR交響楽団と同じような、温かく、会場全体が同じ歌を唱和しているような空気をもたらせてくれます。
おのれの楽しみが自ずともろ人の楽しみとなるような、まさに「七十にして己の欲する所に従えども矩を踰えず」とはこのことではないか、と思うのです。
その姿を見ているだけで悦びとなる。
ヘルベルト・ブロムシュテットはそんな指揮者です。
硬くつやつやした濃緑の椿の藪のなかから聴こえてくるメジロの囀りを聴くのがキライなひとはいないと思います。
これがいわば、録音された音楽を聴くこととすれば、映像でブロムシュテットさんの姿を見ながら音楽を聴く悦びは、花の蜜を吸ういきいきとした姿を目にしながらメジロの声を聴くとき、ひとしお心がウキウキするのとおなじだと思われるのです。
② もしニールセンが生きていたら、こんな人だったじゃないか……と思う
ニールセンの人となりがどんなだったのか、和訳された資料がほとんどない以上、ニールセンの残した音楽から想像するしかないのですが。ニールセンを知れば知るほど、ブロムシュテットさんはニールセンの「音楽に対する精神」の生き写しなのではないか、という気がしてきます。
若いころ……といっても、私がブロムシュテットさんを知った時点ですでに還暦前後だったと思うのですが、そのころは、ブロムシュテットさんの厳しさと、ニールセンの真面目さが重なって見えていました。
いまのブロムシュテットさんには、誰かと歌うのがすきでたまらないニールセンが見えてきます。
ニールセンは、かれがひと節口ずさめば、ポロンとピアノを、あるいはキュンッとバイオリンを奏でれば、それだけでその場にいるひとたちが一気に和やかにあかるく快くなるような人物だったのではないか、と想像しています。
デンマーク固有の国民性といわれるヒュッゲですね。実際に体験する機会がない以上、ヒュッゲについても想像でかたるしかないのですが、ニールセンはヒュッゲな空気をかもすのが好きだしうまかったのではないか、と想像しています。
ていうかそれ以上に、ヒュッゲな空気をかもせない音楽は作曲しない、という強い戒めをもっていたのではないか、と思っています。
ヘルベルト・ブロムシュテットという指揮者は、ニールセンからの教えを実際に実践し、それを体現している人物なのだと思います。
ニールセンの自伝「フューン島の少年時代」には、こんなエピソードがかかれています(p.92〜93)。
ニールセンの父親の率いる楽団は、地域の宴会にかかせない存在でしたが、ある宴会のとき、遅れてくる父親の代理でニールセン少年がバイオリンを弾くことになったそうです。そのときニールセンはシンコペーションの効いた自作のポルカを弾いて、おそらくは意気揚々としていたのでしょうね。だけど途中から曲に参加した父親はいい顔をしてない。そのうえ演奏後に「ダンスができないような曲を弾くのはやめるんだな」と言われたそうです。
ポルカ自体は幸福感に満ちあふれた素敵な曲です。にもかかわらず、父親はなぜたしなめ、ニールセンはなぜこのエピソードをかき残したのか……最初はよくわかりませんでした。
もしかしたら、自分ひとりだけが悦に入ったような、手前勝手な音楽を人前で演奏するものではない、という自戒としてずっと心にあったのではないか、といまは解釈しています。
父親にたしなめられたのはこのポルカ↑です!
あたらしく発掘しました!
こんなバイオリン全集↓も出てたんですね……あとでゆっくり聴いてみよう( ´∀`)
③ ニールセンを正確に解釈し演奏できる指揮者
一般的に、芸術というのは自由で、音楽についても、奏者は自由に解釈し、演奏してよい、とされています。
個性を出すこと。それが芸術家にはもとめられています。
そこは「正解」のない世界、とされています。
なんだけど、ニールセンについては、「正しい解釈」とか「正解」がある、と私は考えています。
詳しくいうと、
ニールセンの頭の中にあった映像を聴き手の頭の中に正確に再現できるような演奏をしたヤツが優勝
な世界だと思っています。
楽譜に基づいて、正確な演奏をしているし出来ている、という点ではブロムシュテットさんが随一なのではないでしょうか。
ブロムシュテットさんの録音のなかでも、デンマーク放送交響楽団との全集が、「正確さ」という点では後世の規範となる録音だと思ってます。
以前は当時のデンマーク放送交響楽団のマズさが耳について、一時期敬遠していました。いまは技量云々よりも、ブロムシュテットさんの真摯さと、その指揮棒に食らいついていく楽団員の迫力、互いに誠実に、かつ全力で、当時できうる限りの力でニールセンの真の像に迫り描いた、という点で、素晴らしい録音であった、と評価しています。
どういったわけか、演奏技量が演奏の質を必ずしも保証するとはかぎりません。ブロムシュテットさんとデンマーク放送交響楽団のニールセン全集も、いちばんいいところで「……ッ……ぁァ……くっそぅ……_| ̄|○ il||li」となりがちですが(その瞬間は、やっぱりめちゃ悲しいよ……。゚(゚´Д`゚)゚。)、いろいろ行脚した挙げ句にやっぱり戻ってきてしまう、「オケの力足らずに泣かされるのに、やっぱり文句なしに最高!」な演奏です。
みなさんにも座右のCDとしておすすめします。
デンマーク放送交響楽団との第5番の動画がみあたらなかったので、かわりに涼やかな曲調が第5番と共通する「パンとシリンクス」をはっておきます。全集のなかでも最も充実した演奏を聴かせてくれる曲のひとつです。
ニールセンの曲で、こんなふうに涼やかさを感じさせるものはめずらしいです。
いまは動画が削除されているようですが、2015年だったかな?……はっきりと覚えてないのですが、DR交響楽団(DR = デンマーク放送 です)との第5番は素晴らしかったです。
以前の、モダニズム絵画を想起させる直線的、図形的なニールセンもよかったけど、三次元で立体的に映像が飛び出してくるかのような新しいニールセンには驚愕しました……このひと、こんなに年齢を重ねてもまだこんなに変化できるんや!Σ(゚Д゚)って。
この、サンフランシスコ交響楽団との録音が、「モダニズム絵画を想起させる直線的、図形的なニールセン」です(これは、第5番の第1楽章の全半)。このころに、
ブロムシュテット = 言葉というより数式のように指揮する
というイメージが頭のなかでかたちづくられていたので、後年の DR交響楽団 とのライブ録音が、曲線で形作られ、肉感的で絵画的、映像的であったのには、同一人物とはおもえないくらい仰天しました。
今夜の放送では、音楽からSLが飛び出してくるような映像的な迫力、期待したいです。
それと、餅よりしぶとい粘りですね。第1楽章の最後の最後まで、何度も何度も波がくるんだけど、そのたびに「まだまだ……まだまだ……」と粘りに粘って、クライマックスで全部が爆発して昇華する……DR交響楽団といっしょに聴かせてくれた粘り強いニールセンをN響でも聴かせてほしい。
余談だけど、この動画、カメラワークとクラリネットが神だったんだわ……もう一度見させてほしいです。
演奏会自体の動画はないのですが、このときクラリネットを演奏していた Johnny Teyssier さんのインタビュー動画で、その片鱗をうかがえます。第5番の第1楽章のラストのめっちゃかっこいいソロもこのなかで演奏してくれるので、ぜひ聴いてみてください。
私は、このひとはこのオーケストラでニールセンのクラリネットを吹くために、神様が遣わしてくれたのじゃないか、とすら思っています。
ほかの作曲家はよくわかりませんが、ニールセンにおいては楽譜は「恐竜の化石」のようなものです。たぶん。
さて、化石に基づいて、恐竜像を復元するにあたって、わがまま勝手な解釈はゆるされませんよね。それ同様、ニールセンは、すくなくとも自分の残した音楽に対して、「芸術だから解釈は自由だ!」といった態度をとることを許してないと私は考えています。それはちょうど、蓄積された発掘物や学説を踏まえない恐竜像を描くのを許されないのと同じです。
音楽が音楽として、在りたいように在らしめよ。
しかし音楽は、ひとに奏でられることなしに存在しえません。
ひとのなすべきことは、「わたしはこうありたい!」という音楽のささやきを聞きとり、叶えることです。
それは、思春期の育児と同じような手綱さばきなのかもしれませんね。子どもは親の手綱をはなれ、あるがままに生きようとしはじめているのに、親が強く介入すれば、歪み、こじれてしまうように。
・◇・◇・◇・
さて、もうすでに19時です。
番組放送まであと2時間……(;´Д`)ハァハァ
校正とかぜんぜんすんでないけど、いったんここで公開しちゃいますm(_ _)m
・◇・◇・◇・
公開後に追加になりますが。
第5番についても。すこし。
ニールセンは6つの交響曲を残していますが、そのなかにあきらかに「ういているもの」が2曲あります。
ひとつは、先日パーヴォ・ヤルヴィさんが振った第4番「不滅」。
基本的にニールセンは聴衆に対して親切なのですが、「不滅」については、
親切さ : 斬新さ = 2.5 : 7.5
と、めずらしく斬新さを出すほうにかたよっていると思われます。
でも、やっぱりその後、やりすぎた(-_-;)……とでも感じたのでしょうか。第5番では、
親切さ : 斬新さ = 6 : 4
くらいの、聴衆によりそった音楽になってるなー、と感じられます。
これは、ブロムシュテット & サンフランシスコ交響楽団による第5番、第1楽章の後半。
例のクラリネットソロは、この動画のいちばん最後で聴けます。
第6番もずいぶん変わった曲なのですが、
親切さ : 斬新さ = 6 : 6
と両者拮抗し、かつ、足して10どころか12になってる\(◎o◎)/!イメージです。
私はニールセンの交響曲は第6番が最高だと思っていますが、初めてのひとにオススメするなら、まず第3番から聴くことをおすすめします。
「聴衆に親切なニールセン」については、やはりこれがピカイチ。ニールセンらしい音色、ニールセンらしい感性、ニールセンらいしもののとらえ方が100%発揮されています。ニールセンの交響曲の入門教材としては最適です。
これは、パーヴォ・ヤルヴィさんに代わって、あたらしくN響の首席指揮者になったファビオ・ルイージさんとDR交響楽団との演奏。
ルイージさん、以前から好きだったのですが、ニールセンを演奏するのを聴いてますます好きになりました。なんというか、DR交響楽団を率いているあいだに、体いっぱいにニールセンを詰め込んだからこそ出てくるニールセン、という感じがします。
まさか、N響といっしょにニールセン……とはならないかもしれないけど、かなってほしい夢としてかいてみときます。
第3番でニールセンへの親しみがわいたら、つぎは第5番。
あわせて2楽章しかないとか、第2楽章が4つのパーツにわかれていて「4楽章制の交響曲」風になっているとか、小太鼓めっちゃ主役とか、新しいことが目につく一方で、メロディや音楽のもりあがり方、スペクタクルさはとても親しみやすい。
「斬新なニールセン」の入門編としては、ぴったりです。
さて。
「ういてる交響曲」その2は、この第5番です。
ニールセンの音楽は、同じ年に生まれ、ともに北欧の音楽を牽引したシベリウスとちがい、一見北欧らしさはありません。なぜなら、ニールセンの音楽は、あかるく、色彩豊かで、あたたかく、おだやか。シベリウスのような肌寒さや冷え切った冴え、はあまりみられません。
が、この第5番はめずらしく、ほの暗く、冷たく、青色で、氷結している。シベリウスの世界観につうじるものがあります。
「不滅」が赤色なら、第5番は青色。
でもどちらも躍動にあふれています。
第5番の第2楽章から、四楽章制の交響曲なら第3楽章にあたる、ひときわ涼しい、月の夜の冷気を思わせるようなパートをどうぞ。
・◇・◇・◇・
さて。
もうすぐ放送時間ですね……
「不滅」のティンパニに負けず劣らず、第5番の小太鼓も度肝を抜いてくれます。打楽器を色彩豊かに鳴らすのが得意なブロムシュテットさんがどう聴かせてくれるか、楽しみです(*^_^*)
それと、クラリネット!
第1楽章の締めくくりのソロは聴かせどころです。
バーンスタインのでは、一片の流氷が、自由の女神像に別れを告げながら沖合へとただよっていく……映像がみえるような気がしました。
私は、N響の打楽器陣はいきいきと活力があって好きだし、クラリネットは丁寧な演奏に好感を覚えています。先日の「不滅」の第1楽章の第1主題のクラリネット、よかったなぁ……( ´∀`)
第5番でも、N響らしい音色が聴けるのを楽しみしています。
最後になりますが。
ニールセンにおいて、楽譜はたぶん、プログラムです。
人間はたぶん、それを飲み込み音楽を吐き出すコンピュータです。
しかし、ひとりひとり生きてきた歴史が違う以上、個性とクセのあるコンピュータです。
ニールセンは音楽についてわがまま勝手な解釈は許しませんが、ひとりひとりの違いに基づきおのずと発生する差異についてはむしろ、好ましく、愛すべきものだと考えていたのではないかな……と想像しています。