私が守るから……大丈夫。
日曜日から月曜日にかけての夜、また眠れなくなってました……。
ちょっとどころか、かなりイヤなことがあって、いまそこから回復している途中です。
心が傷ついた → 立ち直りたい
というひと、一般論としては役に立たなさそうですが、なにかヒントにはしてもらえるかとおもうので、気持ちの整理をかねて、メモっておきます。
・◇・◇・◇・
数日前、とてもイヤなものを見てしまいました。
メンタルケアに携わる仕事をしているひとが、患者をバカにするような記事を書いているのを見つけてしまいました。
相当意訳しつつざっくり要約すると、
みたいな。
もちろん、ザマァ、とか、自己責任、なんてひどいことばは書かれてませんでしたが、書きぶりに病気に悩む患者への連帯はなく、そんな文字列が浮かび上がってくるような気がして、たまらない気持ちになりました。
はっきりいって、ひどいです。
もしかして、私がお世話になってる主治医やカウンセラーさんも、かげではそんなふうに……なんて、いらぬ憶測すら浮かんでしまいます。とはいえ、私もケアをする側の仕事をしたことがあるので、「もう知らん! 利用者さんの自己責任じゃ!」って爆発しそうになる瞬間があるのも容易に想像できます。もしかしたら、主治医とカウンセラーさんに、私がそんな思いをさせた診察日があったかもしれません。
だけど、いま、ケアを受ける側になってみて、それは正しいけど正しくない、とケアワークをしていた当時の自分を見つめる目もあります。
正しくはありません。
だって、どのようなジャンルであるにせよ、ケアを受ける側は、自分の最も弱いところを開示して、ケアラーに委ねるのですから。生きのびるために、そうせざるをえない、それが、弱者、ということです。
しかし、あの記事にこもる悪意は、「このひとになら、弱いところをさらし、委ねても大丈夫」というケアの受け手からの信頼や安心をぶち壊しにするようなものでした。
自分では平気なつもりでしたが、予想以上に傷ついていました。
昨日。昼ご飯を食べてひと段落ついたとき、理由もなく涙が出そうになりました。
この感覚、記憶があります。メンタルがトラウマ級に傷ついたときの反応です。
ヤバい……と思いました。
メンタルヘルス系の知識があるひとならご存知と思います。「理由もなく涙が出る」のは尋常でなく気持ちが落ち込んでいるサイン、心の非常事態です。万一、悪い方向に発展したら「死にたい」が心に浮かぶようにすらなるパターンです(なってしまった経験あり((+_+)))。自分や大切なひとの心を守るために大事な知識なので、文脈上は必要ないのですが、太字にしておきますね。私の経験からいうと、信頼できる家族や友人、相談窓口、医療機関、どこでもいいから、支援先につながったほうがいい、そこまでではないとしても、心の中で相談先リストを確認しておいたほうがいい状態です。私も涙を感じた次の瞬間には即断で、次の診察日には必ずカウンセラーさんに相談することを決めました。
なんとか気持ちを切り替えねば、と思いましたが、無理でした。日ごろお世話になっているカウンセラーさんなら、この涙にどのように声をかけてくれるだろう、と想像してみましたが、なぐさめにはなりませんでした。それどころか、迷惑がられているのでは……というネガティブな気持ちが忍び込んできます。あのカウンセラーさんなら、私が根拠もなくそのような不信を抱いた、と知ったら、きっと悲しむはずだと、確信できるほどに信頼しているひとであるにもかかわらずです。
例の記事の書き手にとったら、私のこの反応は、思惑が図に当たった、というところなのでしょうか。
もし本当にそのように感じているとしたら……なんかもう、ことばにするのもバカバカしいのですが……そのひとにおいて、職業倫理よりも、誰かを傷つけたい、という欲望が勝ってしまった、ということになるのでしょう。ある意味、人間臭いともいえますが。
・◇・◇・◇・
とりあえず、ここは寝逃げだな、とおもったので、寝落ちアプリにたすけてもらいながら昼寝することにしました。
コレです。
「寝たまんまヨガ」です。
去年はちゃんと最後まできいて、プログラムが終わると同時に再始動ヽ(=´▽`=)ノ できていたのですが、今年はいつの間にか昼寝(。-ω-)zzz.……という流れになってしまうほど、強力に効きます。
このプログラムの途中に、サンカルパ、という時間がもうけられています。
ざっくり今風にいうと、アファメーションのようなものです。瞑想しながらなりたい自分をイメージする活動です。
ですが、私の場合は、「目標を設定してイメージに近付こうとする」という使い方はしていません。いまはまだ、そこまでメンタルが回復してないと感じているからです。
なので、まず、心を無にして、「今日はこれから何をしたい?」と質問をします。単に寝て疲れをとりたい、と答えが返ってくる日もあれば、元気に活動するいまより回復した自分のイメージが見える日もあります。こんなふうに、「からだ」が感じている自己イメージを「自分」が受け止める活動、というオリジナルな利用のしかたを私はしています。
実は、去年の正月明け、「もう、note をやめようか?」と思いつめるくらい、精神的にまいっていました。だけど、このサンカルパの時間に連想としてうかんできたのは、「負けたくない」「note という場所が好きだ」でした。
なるほど、脳みそさんがそう決めてるのなら「自分」にはとめられない。安心して委ねよう、と決めて、なんとか今日まできています。いまだに紆余曲折はありますが、このからだの底からの「かくありたい」が揺らがぬかぎり、大丈夫だと思っています。
そのようなことがあったので、今回も、サンカルパの時間に、自由な連想に委ねてみました。
で、びっくりですよ。
まずなにが出てきたか、というと。
例の記事を見て傷ついたメンタルの患者が、
他にもいるかもしれない……(´;ω;`)イタトシタラ、カナシイ
ということ。
いきなりいままで考えたこともない視点がでてきたもんだから、自分がいちばんびっくりしちゃった。
で、つぎに。
書いたヤツ絶対に許さん、という気持ちが一瞬よぎったかよぎらないかのうちに、
みんな私が守る。
大丈夫。
よくわからん。自分がよくわからん。
なぜそこへ飛ぶ。よくわからんぞ!(@_@;)
だけど。
この瞬間、なにもこわくない、と気持ちが反転し。
とつぜん、笑みがこぼれました。
思い出すだけで胸が、ぎゅーっ……となっていた、例の記事の書き手の顔写真のアイコンを、心のなかで直視できるようになりました……ていうか、アイマスクの下で、ほんまに目をかっぴらいてしまったのよん(^_^;)
いまも。
その写真を思い出したらかすかにひるみを覚えないわけではありません。
だけどもう大丈夫。恐怖の対象ではなくなりました。
・◇・◇・◇・
私が守りたい「みんな」のなかには、おそらく、自分自身もふくまれています。たぶん、そのことが、絶大な安心を私にもたらしています。
私は自分のことを後回しにしてしまいがちなので、「自分のため」より「誰かのため」と導いたほうが心身が奮いたつのだと思います。
さて、この手法がだれにでも使えるかというと、ハテナなのですが、身体感覚を重視するひとには、なにか参考になろうかと思います。
試しにサンカルパ的なことをやってみて、逃げたい、と心に浮かんだら逃げることを選べばいい。そのときは、元の場所に戻ろう、もしくは、新たな場所へ旅立とう、との気持ちが自ずと湧くことを待てばいいだけですから。私は意地っ張りな性分なので強気な連想がでてきましたが、そこはひとそれぞれです。
いまのところ、この件についてのメンタルの戦いは現在進行系です。
明日明後日には、負けているかもしれない。だけど、勝ち続けているかもしれない。
今回の解決法はとっぴょうしもなさすぎて、もし似たような件に見舞われたとして、そのときもまた応用できるかどうか……。
ただひとついえるとしたら、立ち直りを支援してくれるのは、メンタルをケアするための「手法」ではない、
おのれがいかにありたいか
ということです。
ここが、朝ドラの「らんまん」の主人公、万太郎はしっかりと把握できているから、マジで無敵。
万太郎をとりまく竹雄も綾も、ストーリーの進行の中でつかんでいった。そしていま、寿恵子がたぐり寄せようとしている。おこるとこわい大奥様も、「家を守る」という役割を捨て、万太郎が自由に羽ばたく姿を見たい、孫が産まれ、家族が増える未来を見たい、という「かくありたし」をつかみしめながら亡くなった。
「らんまん」で生き生きと我が生をつかみ取り、生きるひとびとを見てるだけで、マジでメンタルが癒やされるのです。
だけど、最初の主治医がいっていました。それはむしろ大仰である必要はない。ささやかなものでいいんです。
たとえば、
今日もひと粒のチョコが美味しい、それが幸せ
というような。
存在としての自分が、一箇の生命体としての自分が、なにに幸せを感じるか、ここが把握できていてはじめて、「手法」が役に立つのではないか、と予想しています。
あるいは、「手法」はここにたどり着くことを支援するのを目的としているのかもしれません。
とりあえず、今月の診察日には、傷ついてヤバかったことを具体的にカウンセラーさんに相談してきます。
とりあえずできるセルフケアの一環として、こうやって note を書いてみましたが、やっぱり限界はありますね……((+_+))
必要そうなら、頓服、処方してもらってきます。
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