義理や恩とか、ムカつくおしょう
「自分の大切な人に、義理と筋を通して生きればいい」20数年生きてみての感想です。もちろん色んな意見、考えがあると思うし、この言葉ひとつでも色んな解釈に至ると思います。
僕としては、自分1人が大事にできる人の数なんてとても限られてると思ってます。まぁ家族、いけて恋人くらいじゃないでしょうか?
例えば家族の誰かが病気になり、大切な恋人が仕事で重い悩み、友達が失恋で悲しんでいたら、「お前(友達)は自分で何とかしろや」と思ってしまいます。俺はね。
全員が同じ病気にかかっても、自分を3つにちぎって3割ずつ面倒見るわけにはいかないし、僕の場合は家族から優先順位が始まるので、その時点で少なくとも全員を同じようには大事にできてないわけです。というわけでまぁいくら綺麗事言おうが、いち人間のキャパなんてせいぜいそんなもんで、「そんなことない!」とか言ってる奴はよほど頭が良く効率的に動ける人か、何も考えてない自分よりはバカな人だと考えるようにしてます。まぁその2択で分けれるものではないと思いますが、、
何がきっかけで書き始めたのか忘れるほど前置きが長くなりました。もうここまで読んでる人は僕1人しかいないだろうな、なので好き勝手します。
最近寺のおしょうにめっちゃムカついた。じーちゃんの葬式があったわけだけど、終始偉そうな態度。死後の世界とか魂とかそう言うスピリチュアルな言葉を並べておけば俺らはビビって平伏すと思ってるような殿様商売宗教法人野郎でした。お前も税金払え。
俺らが敬意を払ってるのは死んだ人、つまりじーちゃんや故人が行き着く先にいるとされる存在、つまり神だ。生きてる生身のお前は俺らと同じように謙虚であれ。そして儀式を遂行しろ。葬式終盤のスピーチも誰でも言えるような時事ネタ並べてえぇえぇ唸りやがって、オチのねぇしょうもない話散々喋り倒したあげく、最後に「私もわからないけれど」とか「見たことないけども」を必ず枕詞につけて「死後の世界はあるらしいです」何やねんお前帰れ!
しかし戒名を切望していたじーちゃんのため、僕らはそんなクソ坊主の元に100万を収めにいかなければならないのでした。
受け取り方も軽い!もっと謹んで受け取れ!税金払わねぇんだから!お前は。
なのにばーちゃんが平伏すから余計調子乗る。”祖父の望んでたことだ。願いを叶えてあげたいからお願いしている。なのに何でこんな下に見られた対応を受けなきゃなんないの?俺らは宗教に絶対服従するほど貧困じゃねぇし文明も浅はかじゃねーよ。時代が違うんだ。”そう思いましたがじーちゃんのために言葉にするのは耐えました。
でもまぁ戦争を生きた今の高齢者にはあのくらいの態度でもおしょうというのは尊敬される存在なわけです。かなり違和感を感じますがね。
明日はそんなじーちゃんの49日、納骨です。そんな和尚へのお布施を丁寧に包む父を見て、最初に書いたように言いました「自分の大切な人に、義理と筋を通して生きればいい。だからあんなおしょうにそんな大金包む必要ない。」と。
結果的に金額は減らしましたが、父はこう言いました。「俺も和尚は嫌いだけど、親父のためだ。」
しかしそんなことも知らないあの和尚が、丁寧に包まれた封を開けて金を手にしたとき、また群衆を見下ろす王が如く僕らに目を向けるのでしょう。
大事な人のために、嫌いな人にも恩を与えなければいけないみたいです。
なるほど、人間関係は複雑で人生はめんどくさいですね。