【連載小説】「雨の牢獄」解決篇(一)
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【注意】
本投稿は、犯人当て小説「雨の牢獄」の解決篇です。
問題篇を未読のかたは、そちらからお読みください。
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内緒話のように、エンジンが静かに鳴っている。
濡れたアスファルトとタイヤの擦過音。
断続的なワイパーの作動音。
普通なら気に留めることのない、そんな些細な雑音を意識してしまうのは極度に疲れているからだろう。気が立っているのだ。
物音を立てることすら抵抗がある。
そっと、息を潜めてしまう。
そんな不思議な静謐が、暗い車内に満ちていた。
業を煮やした寅男が不満の声を上げたことがきっかけで、延々と繰り返される事情聴取が終わったのだった。住所や連絡先を伝えると、ようやく、事件関係者は警察から解放された。
劇団の三人は、各々の自家用車で帰宅。
黎司は、同様に帰宅する瀬奈の車に同乗し、昨日の午後に降り立った駅周辺まで――24時間営業のインターネットカフェがいくつもあるらしい――送り届けてもらうことになった。
窓の外に広がる早朝の薄闇。
雨空の片隅が、群青から青紫へと、仄かに白み始めた。
銀粉を撒いたような霧雨が、水滴となり、真珠のように流れていく。
――夜が、明けるのだ。
黎司は大きく息を吐くと、その勢いで口を開いた。
「事件のことだけど」
「うん」
「どう思う」
返答が途絶え、また、エンジン音が耳に障る。
突然、瀬奈がワイパーを停めた。
雨が止むのだろうか。
「思いついたことが、あって」
迷ったような口調で、瀬奈が沈黙を破った。
黎司は振り返り、彼女の横顔を見る。
「一人だけ、あの〈足跡の密室〉を作れた人が、いると思って」
「それは……誰……」
瀬奈が口を開くと、唇同士が離れる音がした。
シルエットの首元が動く。
唾液を飲む音が聞こえた。
大きく息を吸う瀬奈の深呼吸が、かすかに震えている。
緊張しているらしい。
黎司は、瀬奈の横顔を見つめている。
――寅男さん、と、突然、瀬奈が小声で言った。
今度は、黎司が沈黙する番だった。
不機嫌そうな脚本家の顔を思い浮かべてみるが、考えがまとまらない。
諦めて、
「どうやって」
と、黎司は問い直した。
「太郎さんが亡くなっているのを発見して……通報したあと、もう一度、離れに行って……それで……私達の足跡がいくつも重なった……」
「うん」
「その重なった足跡から、何人の人間がどういうふうに歩いたか断定することって……できないと思うの」
「そうだろうね」
「だから、他の足跡がそこに紛れ込んでも、誰にもわからない」
「ああ」
ようやく、瀬奈の言いたいことを理解した。
「犯人は僕たちの足跡の上を歩いて、離れを立ち去った……そう言いたいんだね」
無言で、頷く瀬奈。
「つまり、僕と亜良多さんと月島夫人の三人が最初に事件を発見したとき、犯人は離れに隠れていた……ソファは太郎さんが横になれるくらいだから、犯人がその裏に隠れられることはできただろう……そして僕たちが母屋に戻った後、僕たちの足跡の上を歩いて、犯人は玄関から母屋に戻った……」
「それができるのは、一人しかいないの」
「事件発見時点で唯一、アリバイのない寅男さんだけだね」
「通報の後、一番最後にリビングに現れたのは寅男さんだったわ」
「つまり、寅男さんは、僕たちの足跡の上を歩いて玄関から母屋に入った直後、まるでいま二階から降りてきたような顔をしてリビングに現れてみせた……」
「あの状況なら可能だったはず」
「なるほど、その可能性は考えていなかった……」
状況を整理した黎司は、あることに気づく。
「でも……犯行前に寅男さんのアリバイがなくなったのは降雨後だから、足跡を残さずに離れに向かうのは不可能なんじゃないか」
「太郎さんが離れに行ったのは降雨前だったのよ。そのとき、裏口には太郎さんの靴があった」
「うん……事件前の裏口にサンダル以外の履物があった可能性は、誰にも否定できないね」
「太郎さんが靴を履いて離れに行ってから雨が降る……その後で、寅男さんが裏口から、今度はサンダルを履いて離れに向かった」
「つまり、降雨後に太郎さんが裏口から離れに向かった時のものと思われたサンダルの足跡は、実際には寅男さんのものだった……」
「これなら、現場の状況と矛盾しないはずよ」
「離れの入口には靴が何足も散らかっていたから……太郎さんが降雨前に使った靴がその中にあった可能性も、これも誰にも否定できない……」
目を瞑る黎司。
脳内で記憶を再現する。
そして、事件の発見直前に見たあるものを、もう一度思い出した。
「いや、矛盾する……」
「どういうこと」
「寅男さんが、その犯行手段を獲らなかったという、明白な証拠がある。実は〈足跡の密室〉に関して、僕は瀬奈ちゃんと別の結論を出しているんだ」
「別の結論……」
「そう……いま言った、その明白な証拠に基づけば、あの〈足跡の密室〉がどうやって作られたかを、論理的に特定することができる」
シルエットが呼吸を繰り返す。
たっぷりと時間をおいてから、黎司は沈黙を破った。