【暇と退屈の倫理学】を読んで起きた内面の変化
実は、面白そうと手に取ったものの、内心(どうせ小難しい理屈を並べてもっともらしく説明するんだろう。丸め込まれんぞ)とだいぶ斜に構えて読み始めました。
ところが、最後には、衝撃と共にすっかり説得されてしまったのでした。
序盤は、(あー、私にはあんま関係ないかも。だって、暇でも退屈でもないもの)と他人事として読んでおり、
徐々に、(いや、待てよ、暇も退屈もしていないって、つまり、あれだ、
「労働を余儀なくされている階級」だからだろう!)と真実に直面することとなりました。
特に、第3章『暇と退屈の経済史』は、ガンガンガンと殴られたかのような衝撃が走りました。わたしの休暇はまさに「労働のための休暇」。日々の労働の疲れを癒して次の労働のために力を蓄えるための時間だったのです。
何よりも、労働中心の生活、パンを得るためにあくせくする生き方が自然すぎて、ギモンを持たなかった自分がナゾすぎる。ギモンを持たなかったばかりか、(経済的に自立して自己管理してちゃんと生きているエッヘン)という自負すらあったのです。
かくして、わたしの労働中心の生き方とプライドに、はてなマークが付けられました。
とは言え、労働中心の生き方とそれを支えるプライドが、強迫観念と承認欲求の産物(優秀な労働者でありたい。じゃないと、食いっぱぐれてしまう)であると思い至るのに、そう時間はかかりませんでした。
そして、この強迫観念と承認欲求が団塊世代の親の影響と新自由主義社会の風潮を受けてのことだと思わざるを得ないのでした。
こう書くと、「いい歳して親や社会のせいにするな。自己責任だろう」と、お叱りを受けるのだろうか。
ならば、「ここに書いてあることは単なる一個人の気づきです。自分も含めて誰かを責める意図はありません。」と言っておいたほうがいいのかな。
一方で、「自己責任論」こそ疑ってみるべきでは?とも思っていますけど。
さて、どうやって贅沢していこうか?
これがもっぱらの課題です。
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