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第12回の9:『お昼のワイドショー』出演にて全国区で世を騒がせた紅蜥蜴が、六本木と渋谷の夜に出没する

高木完『ロックとロールのあいだには、、、』
Text : Kan Takagi / Illustration : UJT

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY で好評だった連載が復活。ストリートから「輸入文化としてのロックンロール」を検証するロングエッセイ


1973年。紅蜥蜴は化粧をして、50人のファンを引き連れて、NTV『お昼のワイドショー』に登場。番組のテーマは『新しき性の倫理を探る~良家の子女が支える暴力ロックバンドの金と性』。バンドは台本を無視し、『黒い人形使い』を10分近く演奏した。

この時のモモヨさんの記憶。

「スタジオだから止められない。生放送だし。俺たちの演奏が終わってから苦情の電話がガンガンきたらしい」

キングレコードでもデモ録音していた『黒い人形使い』だったが、この後、東芝にて再録。この時のデモ音源は現在YouTubeで検索すると聴ける。これが素晴らしい。MC5に近いドライブ感とテクニックに裏付けられた演奏で、『けしの華』に収録されているテイクよりもハードだ。こんな演奏を、ビジュアル系ロックの浸透でロックが定着した今とは違う50年前の、それも真昼間のTVでお茶の間に向けた放送で、眉を剃り落として化粧をし、派手な衣装の若者がグルーピーを引き連れて演奏したのだから、事件だった。

「番組には青島幸男と野末陳平、八代英太、中山千夏が出ていた」

当時青島幸男氏は40歳。放送作家からタレント、作詞、作家とマルチな活動をすると同時に参議院議員になって数年後だ。番組で青島氏は『お昼のワイドショー』の総合司会。八代氏と中山氏の2人が青島氏をサポートしていたようだ。この時の模様は当時番組を見ていた五木寛之が『夜のドンキホーテ』という小説の中で取り上げているが、そこでの描写とはうらはらに、出演していた人たちは面白がっていたようだ。

「壊しちゃえ、こんな番組」

そんな声も聞こえてきた、とモモヨさんは回想する。

50人のグルーピーというのも実際はグルーピーではなく

「その頃、高円寺にいたから、女子美のコたちがみんな周りにいてさ。そんなコたち」

視聴率を得るためにセンセーショナルに煽った番組だったので、その影響力たるや、すごいものがあった。

当時リアルタイムで番組を見ていた人の中に、後にリザードと深く関わっていくことになるオートモッドのジュネがいた。

『この番組、生番組で、番組の最後に紅蜥蜴が生で演奏する事となってて、まあ3分ぐらいやって「はい紅蜥蜴の皆様でした。それでは皆様また明日!」なんて感じで番組が終わる予定だったんでしょうが、いっちゃってる紅蜥蜴はいつまでたっても演奏を止めない。まあカメラを向けなければ紅蜥蜴の姿は映らない訳で、ただどうしても同じスタジオでの生放送、音はいやが応にも入ってきてしまいます。今でも覚えていますよ! 困り果てた司会者の顔を。「もう時間ではありますがバンドはまだ演奏をやめようとは致しません、スタジオは騒然としております」みたいな感じで終わったんじゃなかったかな。田舎の茶の間で祖母と見ていたプログレ小僧の僕は一言「やらせだね」と言うて昼食を食べた記憶があります(笑)』
(ジュネBLOGフェティッシュダディーのゴス日記2006年9月9日より)

番組を見て連絡してきた東芝の石坂敬一さんは、この国でロックとロールのあいだを思う時、欠かせない人物である。

「石坂泰三って調べればわかるけど、東芝のトップで経団連の会長にもなった大物財界人なんだけど、石坂(敬一)さんはそこの一族。石坂さんのお父さんも坂本九の『スキヤキ(上を向いて歩こう)』を売った人なんだよ」

調べたら石坂泰三氏は敬一さんの祖父母双方の従兄弟にあたり、父、石坂範一郎氏は泰三氏の縁戚になる。範一郎氏はもともとビクターで洋楽部長を務めていたが、泰三氏の命を受けて東芝に戻り、ビートルズの日本発売を決め、来日も企画していた人であった。

前述した『黒い人形使い』の別テイクは石坂さんのディレクションによるものだ。

「石坂さんは洋楽だから協約上、邦楽を手掛けられなかったんだけど、そこを画策して
クリエイションとコスモス・ファクトリーと紅蜥蜴をデビューさせようとしてた。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの元メンバーをプロデューサーに立てて、と言ってね。けど、最初のふたつ出したとこで、石坂さんと確執のあるディレクターがルージュを持ってきちゃったんだ」

ルージュは紅蜥蜴と同時期に活動していたバンドで、東芝からのアルバムは加藤和彦のプロデュースである。ルージュではなく紅蜥蜴のアルバムが出てた、可能性もあったわけだ。

石坂さんが紅蜥蜴を気に入っていたことは、ライブのブッキングまでしていたことでわかる。

「六本木の〈長崎物語〉でライブをやってたのは石坂さんの紹介。太田さんって言うゲイの夜の世界で有名な人がいて、ピーターを発掘した人なんだけど、〈オランダ屋敷〉って店と〈長崎物語〉を持ってて、〈長崎物語〉に出てくれれば〈オランダ屋敷〉で1日中練習して構わないよって言われた。ルージュとは付き合いはなかったけど、〈屋根裏〉に出るようになってからオサムとか付き合うようになった。当時NHKの波多野(紘一郎)さんが〈屋根裏〉のブッキングもやってたんだよ。最初の3ヶ月。それでルージュと紅蜥蜴とプリズムをハウスバンドみたいにして月に一回出てて、自分の出番がなくてもみんな飲みに行っててオサムとか和田アキラ(プリズム)とか友達になった」

NHKの波多野さんは『ヤングミュージックショー』と言う番組を制作していたことで知られている。日本のロックはこの人の尽力もあって広まったと言っても過言ではない。

そして1977。

もともとはドラマーだったと言うコウがキーボードプレイヤーとして加入し、蜥蜴は変態していく。

「あれは不思議とうまくいったよね。きっかけは俺が神田でバイトしてた時、コウと再会したらあいつキーボード持っててさ、クラビネット。それお前どうするんだよって聞いたら、『買ったんだよ』って言うわけ。で、バンドやってんのかよ?って聞いたら『やってない』って言うから、それで今度一緒にやってみる?ってなって、ライブで出来る曲からやっていくかってなって。キーボード入れやすい曲から入ってもらったんだ。なんだかんだで半年ぐらいかかったかな」

紅蜥蜴が変わった、と巷では噂になって、僕の耳にもそれは伝わってきた。

(つづく)

急性心不全により、2023年1月末に紅蜥蜴〜リザードのベーシストである若林 "ワカ" 一彦さんがお亡くなりになったようです。ワカさんのベース、ライブで又聴きたかったです。心よりご冥福をお祈りいたします。


モモヨの自伝的小説。『蜥蜴の迷宮 —若き爬虫類にささぐ—』菅原庸介(DOLL7月号増刊/87年7月1日刊)。筆者私物を撮影。



高木完
たかぎ・かん。ミュージシャン、DJ、プロデューサー、ライター。
70年代末よりFLESH、東京ブラボーなどで活躍。
80年代には藤原ヒロシとタイニー・パンクス結成、日本初のクラブ・ミュージック・レーベル&プロダクション「MAJOR FORCE」を設立。
90年代には5枚のソロ・アルバムをリリース。
2020年より『TOKYO M.A.A.D. SPIN』(J-WAVE)で火曜深夜のナビゲイターを担当している。

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