連載 第十一回:純愛だよ÷ヒーロー
最果タヒ『MANGA ÷ POEM』
Text:Tahi Saihate / Illustration:Haruna Kawai
ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY でも大好評だった詩人・最果タヒの新連載が登場。好きな「漫画」を、詩人の言葉で見渡すエッセイ
「守りたい人」には優先順位がある。世界中全てを守りたいと願って、公平に人を守るなんていうのは、ヒーローじゃない。それはただの平和維持装置だ。物語にいるヒーローは、正しさの奴隷ではない、なぜなら彼らが使うのは結局は暴力だから。力だから。勝つことで何かを奪い取る行いを、「守る」と言っているだけだから。彼らは守りたい人を守っている、誰でもいいわけじゃない、そして、彼らが守ろうとするその理由が、守りたい誰かへの愛情や友情である時、人はそれを正しいことのように錯覚する、ヒーローの物語をすんなりと受け入れる。それは、とても尊いものに見えるからだろうか、自分達では守れないかもしれない友達や家族のことを、疑似的に戦って守り抜いたような錯覚があるからだろうか。でも、そこに正しさの根拠なんて本当はなく、そしてそんなことは自分達だってわかっていて、「正しさ」なんて実はそんなにほしくないんだってことからずっと目を逸らし続けている。特別な人がいてその人を守りたくて、そしてだからその人の周囲も守りたくて、そうやって本当は少しも平等じゃないそんな強さを「正しさ」だって言いたくなる、そんなヒーローに対する願いみたいなもの、私はとても好きだった。
守りたいものさえ守れそうにないと、思うことの方が多いです。それが悔しくて、いたたまれなくて、世界が正しくなればこんな「守れない」苦しさから逃れることができるかもしれないと、正しさを願っている。何かから大切な存在を守らなくちゃいけない、という状況がまずおかしいんだって本当は思うのだ。でも、世界が間違っていて、どうやっても正しくはならなくて、苦しみや恐ろしい出来事が既にある状態で、それでも縋りたいのは正しさなのかっていうと本当はもう違う。世界が正しくないのにどうして自分が正しくなることを追い求めなければならないのだろう、正しさを叩きつけたら正しくなってくれる世界ではない、理想は正しい世界でも、今それが存在しない時、私はやっぱり「守りたい」と思う、正しくなりたいなんかより、大切な人が誰も傷付かないでほしいと思う。誰かや自分を守ることの妨げにさえなるかもしれない「正しさ」を第一になんて掲げられなかった。それでも、守るための暴力を否定されるのが怖くて、直視したくないことが多すぎて、正しいことを言ったり、「正しい人」として振る舞うヒーローに惹かれてしまう。愛する人を守ろうとするヒーローに純粋さや、優しさや、それこそ正しさに繋がる真っ直ぐさを見出そうとするとき、ただ感動するというより、言い訳を探しているような感覚になる。ヒーローはねじまがったことを言ってはならないし、暴力以外はとてつもなく素朴に良い人間でなければならないって、どこかで当たり前に思っていて、なんて乱暴なんだろうと気づく。守りたくて戦うだけの人なのに、勝手に、いい人でいてほしいと願っています。そうでなくちゃ戦うこと以外で守ることができそうにないものを、全て見捨てなくちゃいけなくなるから。
呪術廻戦0巻は、暴力に言い訳をさせない。主人公の暴力と敵の暴力にどんな差があるだろう、目的の残忍さに差はあっても、暴力の禍々しさはそのままで、そこに言い訳を許していない。己の暴力の禍々しさを直視するしかない主人公・乙骨が最後にその暴力に添えた言葉が「純愛だよ」だった。
自分のことを愛してくれる怨霊を使役し、敵を倒そうとする乙骨は、最大限の力を出してもらうために怨霊・リカちゃんに愛を誓いキスをする。乙骨のそんな行いを敵は「女誑し」というが、そのときに乙骨から出た言葉が「失礼だな 純愛だよ」だった。
愛のくせに一つも、暴力の言い訳にならないこの台詞が私は好きです。暴力の禍々しさを全て認めて、言い訳なんて求めていなくて、自分が勝手なことを言って相手に対峙していると自覚して、それでも語られる純愛という言葉の、その凶暴さが好きです。それが本当に純愛なのかどうかってことは大した問題ではなく、それよりもこの言葉が本来持つはずの清さや真っ直ぐさを、敵に全てわかっていて、自覚的に叩きつけるその攻撃的な姿勢が好きだ。お前よりはぼくの方が正しい、と、感情的な敵意として告げているようだった。純愛という言葉を選ぶこと自体が、何より乙骨の怒りの現れだったと思うのです。
お前は間違っているよと言いたくなるとき、それがただの怒りであるとき、相手にもそれを理解してもらおうなんて思わない、世界中に味方してもらおうなんて思わない、筋が通ったことを言いたいわけじゃない、どっちが客観的にも正しいのかどうかなんて興味はなく、とにかくぼくはお前よりは正しいよ、と叫びたくなるときのその怒りとして語られる「正しさ」こそ、ヒーローのものだと思ってしまった。そこに真っ当な根拠なんてないのだ、ただ相手を、この世で信じられている「正しさ」とか「愛」とかそういう絶対的な価値を用いてでも全否定したいって願ってしまう。絶対的に美しいはずの「純愛」。確かに、彼にとってリカちゃんは大切な存在で、愛もあるだろう。でもここで「純愛」って言ったのは愛があふれたからじゃない、怒りがあったはずで、怒りのための発言で、それがとても綺麗だって思う。
「純愛なんて言葉を用いる限りは、めちゃくちゃにキレていてほしい、めちゃくちゃに凶暴な心と力であってほしいという願いが全て叶っているこのシーンの強さよ、ヒーローだ。」
これは、昔Twitterに書いた私の感想です。
ヒーローにだって怒っていてほしいのだ、だって私が誰かを守りたいと思うとき、それはいつも怒っている、正しさだの優しさだの言われても、それらが救ってくれなかったから傷つく人がいて、「守りたい」って気持ちが生まれてしまう。そんな状況で何が正しさだよ。そういうものにさえ本当は怒っていて、それらを怒りの一部として都合よく敵に叩きつけることができた乙骨が好きだった。真っ当な「正しさ」のために生きる気もないよ、ただ私が嫌だと思うことに嫌だと叫ぶだけの人生だ。ヒーローだって怒るし、ヒーローだって正しくない。そして正しさなんてものはもう大した価値がない。そんな世界でもヒーローとして、戦おうとする彼が一番勇気がある。その勇気を、私は好きだって思うんだ。
どんな登場人物より心が優しいから、とかではなくて、自分の感情の激しさに真っ向からぶつかり燃えていく人。それなのに、暴力の身勝手さから目をそらせずにいる人。本当は私もそうなりたかった。正しさとかではなく、この世界はおかしいとか理不尽だとか嘆くのではなく、愛した人が傷つくことにただ一人の人間として泣き叫び怒りたい、そのままで戦いたい、そうでありたかった。それが一番恐ろしくて、でもそうであり続けたかった。愛は世界を救えない、でも「私は一人の人を愛しているから最悪な世界を壊しても許される」と信じ抜いている人間は強く、恐ろしくもある。そしてヒーローも本当はそこに属している。そう思えるだけで、救われることがあるのだ。たとえ世界を壊そうとしなくても、自分のことでもないのに誰かの悲しみに本当に胸が痛むとき、怒りが湧くとき、その身勝手さに恥じることがなくなる。世界にとっては意味のない愛も、私にとっては、決して無意味ではない。そう信じることができる勇気を、ヒーローは唯一証明してくれている。
・呪術廻戦0巻(原題『東京都立呪術高等専門学校』)(芥見下々・著)
https://shonenjumpplus.com/episode/10834108156631749950
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