第11回の3:窪田晴男が語るグラム・ロック上陸期の日本。文学も演劇もグラムにあった!?
高木完『ロックとロールのあいだには、、、』
Text : Kan Takagi / Illustration : UJT
ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY で好評だった連載が復活。ストリートから「輸入文化としてのロックンロール」を検証するロングエッセイ
グラム・ロックの2トップの一方、T. REXは窪田晴男にとってはどうだったのだろう。
「T. REXは、ちょうど中間試験があって行けなかった。T. REXはもう一段奥っていうか。
ポップに見えるけどね。大人になってからマーク・ボランについて森園(勝敏)先輩と話してたら『T. REXの方が深いからな』って。あれは最後のブルースマンなんだよね。正統的なね。大体曲が6小節。全部そうだよ。ボウイは4小節なんだよ。でも、(ボウイは)それが後年嫌だったんだろうね。どんどんヘンな小節数になっていくから」
マーク・ボランの来日はボウイ来日の前年であった。そしてこの年、窪田晴男はエレクトリック・ギターを手にする。
「1972年にエレキギターを買わないと僕の人生は始まらないと思ったわけだ。親にギャバンのSGを買ってもらった。よし、これでロックが出来るってなって。友達に神谷君っていうのがいてね、そいつはどっちかっていうと、ブラック・オーク・アーカンソーとかアメリカン・ロックが好きだったんだけど、そんなの構ってらんないから、フライングV買わせて」
72年に日本に来たアーティストを列挙してみよう。フリー、シカゴ、ディープ・パープル、グランド・ファンク・レイルロード、ピンク・フロイド、レッド・ツェッペリン、エマーソン・レイク&パーマーそしてT. REX etc...。
「ベースを探してる時に隣の中学に横山(英規)ってのがベース持っているらしいっていうんで訪ねていく。横山はその頃フェイセズとか好きなんだけど、じゃあやろうぜってんで無理矢理誘って。当時は荻窪にもスタジオがAMS(アベ・ミュージック・スタジオ)ってのしか無くてね」
横山英規。窪田晴男とは1980年代になってからも人種熱~ビブラトーンズで活動している。
「高校になるあたりから軽い気持ちの奴らが抜けて、4人になるんだけど、僕はもうデヴィッド・ボウイにやられてたから、ギター持たないでリード・ヴォーカリストになろうと。ギターは作曲の道具、になってたね。デヴィッド・ボウイを見たときに、これはオリジナルじゃないとダメだと思ったんだよね。今にしてみれば伝統的なものからできあがってるんだけど、あれを最初見たときはまったく新しいものだと思った。どこにも似てるものがないって」
70年代のこの時期にボウイに触発された若者たちの昂まりは、ロンドンではパンクに流れていく。
「音楽ばかりやってたから大学受験も考えてなくてね、高校終わるときにバンドは無くなるんだけど、僕はソロ・アーティストの気分だったんだ。ボウイがメンターだったから」
時代的にはハード・ロックもプログレッシブ・ロックも全盛だったわけだから、日本のロック・ファンでグラムにハマっている人は少なかったろう。Wikiのグラムの項を見てもわかるように日本でのグラム・ロックに関してはまったく言及されていない。その理由は、おそらくだが、それまでのロックと違って、グラムにおいては、文学やアートも重要な要素として取り入れられていたからなのだと思う。
「当時、ライブハウスあるにはあったけど、僕らがやりたいところとは違ってた。〈荻窪ロフト〉ではグラムできないよね。大人の世界に見えてたし。自分たちで中野公会堂とか文化センター借りてきて、自分らでPAと照明頼んで、チケットも作って」
僕が見た〈アトリエフォンテーヌ〉も芝居をやるようなところであった。
窪田晴男のスレイブも演劇じみているところはあった。ボウイ来日の2年後、日本では『ロッキー・ホラー・ショー』がほぼオリジナル・キャストで来日していたのだが、それは映画版が公開される前だった。演劇とロックンロール、グラムには間違いなく親和性があったと思う。ボウイに大きな影響を与えたウォーホルの『PORK』、ライザ・ミネリの『キャバレー』、そして何よりリンゼイ・ケンプ。たとえば77年結成のバンド、ガールズのボーカルだったリタの下着姿はランナウェイズの模倣ではなく、『ロッキー・ホラー』からインスパイアされたものだったようだ。
「『名無し人』っていう演劇集団(のちの『キラキラ社』)があって。それを立ち上げるのが岩谷宏(音楽評論家)さんとハイシマコオジさんっていう劇伴のプロの方。他にマーケティング・コンビナートのプロデューサーの人で、ベルコモンズやら何やらやってた人なんだけど、その人がこれからの時代の子供達ってのを見せなきゃいけないってことでプロデューサーになって。岩谷さんはその人と京大で一緒で。岩谷さんが歌詞と脚本を頼まれて、ハイシマコオジさんが、僕の知り合いで今、劇伴の帝王である蓜島邦明君に声をかけて音楽やることになって、僕にギターを弾いてくれって頼まれて、埼玉の奥地にあるスタジオに行くんだ。そしたらいろいろありまして、みなさんいなくなって、結局僕が音楽やるようになるんです」
(つづく)