第14回の3: パンクからロータスへ。NYから原宿、『ポパイ』誌でのブレイクまで……金谷真さんが体験した70s末から80s初頭、アートと音楽が共振していた最先端領域とは?
高木完『ロックとロールのあいだには、、、』
Text : Kan Takagi / Illustration : UJT
ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY で好評だった連載が復活。ストリートから「輸入文化としてのロックンロール」を検証するロングエッセイ
「見開きのパティの絵が世に出てからは、それまでモノクロームだった世界が一気にカラーになった感じでしたね」
と語る金谷さんだが、実際はビザの関係もあって、掲載号が出て程なくして帰国することになる。
そんな金谷さんが帰国前に得た最大の経験は、その後パンクが世界中に広まったきっかけの場だと思えるギグに遭遇したことだろう。
「あの当時、〈CBGB〉はやばい感じだった。バワリーだから夜は普通行かない感じ。〈ボトムライン〉とか〈マクシズ・カンザス・シティ〉は行けるんだけど。それでも〈CBGB〉に2回ぐらい行った。出てたのは下手だった。名前も覚えてない。上手いっていうより、オリジナルが大事っていう印象だった。そうこうしてるうちにラモーンズだけ人気が出てきて、〈ボトムライン〉でドクター・フィールグッドと対バンの日があった。フロントがラモーンズ。どっちもアルバム出したんだけど、ドクター・フィールグッドはパブ・ロック。ラモーンズはパンク。〈ボトムライン〉はどちらかと言うと、ジョニ・ミッチェルとかビリー・ジョエルとかメジャーな人たちが出るとこで、そこに初めてラモーンズが出るって言うんでニューヨーク中の関係者とかセレブとか、普段〈CBGB〉行ってなくて見たい人が、集まったんですよ。そしたらすごい感激したのは客でトム・ウェイツがいたんですよ」
実際のライブは、、、
「ドクター・フィールグッドはすごいかっこいいんだけど、ロックンロールのブルース・コードで、それって新しいアタックではなかった。ラモーンズはジョーイ・ラモーンは音痴だなって思ったけど、とにかくセンスだけで初期衝動みたいなんだけど、それが例えば日本で昔ベンチャーズが流行った時って、自分もやりたくなるんですよ。出来そうな感じ。ラモーンズにはそれがあったんですよ。アドリブ、リフ一切ない。ロックのエッセンスがストレートで、上手い下手ではなかった感じ。ニューヨーカーって、そういうのを認めるから。すでにあるものではなくて。そこから変わったんだと思う。ニューヨークでパンクがバーッと広まった」
このギグは1976年5月10日と11日に行われている。
この時のオーディエンス録音による音は現在YouTubeで聴くことが出来るし、当時の『ニューヨーク・タイムズ』の評もアーカイブで読むことが出来る。ライブの演奏は、記事ではかなり辛辣に評されていて、期待したほどではなかったと書かれているが(アンプのハウリングが記者を苛立たせたのかと思わせられる。オーディエンス録音を聴くかぎりそれほど多くはないが、確かに何度か聞こえる)それでもラモーンズがフィールグッドよりも印象がよかったことは、文章から窺い知れる。
「ドクター・フィールグッドよりラモーンズの方が新しかった。ドクター・フィールグッドのマネージャーはジェイク・リビエラっていうスティッフ・レコードを作った人。ジェイクがラモーンズと組ませて、その後、彼はダムドの最初のレコードを作る。そこからですよね。ロンドンでパンクが広まるのも」
その年帰国した金谷さんは、原宿に借りていたアパートに戻る。
「当時は帰ってきても誰もパンクって知らなくて、そうこうしてるうちに大貫憲章がロンドンでパンクを見てきた。それでパンクに目覚めるんだけど、大貫くんがパンクに目覚めた時、知人を介して僕がニューヨークで(『パンク』誌のコンテストで)チャンピオンになったことを知って、会おうってなって、それからすぐに僕を平凡出版に連れていってくれたんですよ。今度『ポパイ』って雑誌が創刊されるからそこでイラスト描かないかって。それで、『ポパイ』は創刊からずっと音楽ページで描いてました」
「大貫くんとはバンドもやった。その時僕が使ってたアコースティック・ベースは、シーナ&ロケッツのファースト・アルバムのスタイリングってメンズ・ビギがやってたから、僕んとこに借りに来ましたよ。グヤトーンのやつ」
大貫さんからの紹介から始まった雑誌イラストは多くの人の目を惹く。
「『ポパイ』で知られてから、『プレイヤー』、『ニューミュージック・マガジン』、『スタジオ・ボイス』、『漫画アクション』、『女性自身』も描いてた。それやってるうちにコマーシャルの仕事も来るようになってJRAとか日産とか化粧品会社とかやりましたよ」
売れっ子イラストレーターとなった金谷さんだったが、そういった仕事は5年でやめることになる。
「当時知り合ったイラストレーターとか、みんな仕事はすごいやってるんだけど、自分の作品ってのがないんですよ。アートで作品作ってない。『自分はこのままでいいのかな?』って思って仕事を辞めて、82年にまたニューヨークに行きました」
「ニューヨークでスティンキー・トイズでドラムやってたエルヴェと友達になって、多分勅使河原季里の紹介だったと思う。ちなみに季里がやってたイール・ドッグスが出したアルバムの中の2曲は俺が書いたというか、季里が日本に来たとき俺が歌った鼻歌をそのまま曲にしてる。エルヴェはフランス人でその頃ニューヨークに出てきてたんだよね。そのエルヴェから『グレース・ジョーンズの撮影があるから行かないか?』って誘われたこともあった」
「スタイリストのマリポールがエキストラを集めてて、エルヴェにも電話がかかってきて、それで俺も一緒に行ったんです」
曲は「Pull Up to the Bumper」。
80年代初期のディスコとニューウェーブがフュージョンした時代に、最もクラブ・シーンそのままの世界で作られたアルバム『ナイトクラビング』を代表する曲だ。
草創期のヒップホップの現場や数多くのニューウェーブ・バンドのライブを始めとするNYのクラブ・シーンを徘徊していた金谷さんだったが、その後、居をジャマイカに移す。
「ジャマイカは7ヶ月住んだ。最初キングストンに1週間ぐらいいた。そこで知り合った友達が地元に帰るって言うんで、キングストンから車で1時間ぐらいかかるブランドン・ヒルってところに行って、クール・セシルってラスタが住んでて、そこに居候することになったんです。それでそこから熱帯植物描くようになる。ジャマイカに住んでから、またニューヨークにも行ったりしたけど『都会は違うな』ってなって。結局日本も秋田に帰って」
「その後、秋田にいた友達がハワイ島に牧場作るって言うんで、そいつの手伝いで遊び兼ねてハワイ島に行ったんですよ。ハワイ島って空気が世界で一番綺麗。すごいいいところ。いる間は木を三千本植えたりしたんですが、ある日ホノカアにある〈バンブー・ギャラリー〉でパワー・ストーンを扱ってる店の人に絵を見せたところ『これすごいいいよ』って言ってくれて、コレクターズ・ファイン・アートに電話してくれて。そこはディズニーのライセンス持ってるとこなんですけど、僕も契約することになったんです。日本人で初めて。その後、カナダの画廊で個展やるとき、ギャラリー側から、あなたは日本人なんだからあなたのバックグラウンドにあるもので表現して個展やりましょうと言われ、その時思ったのは、日本の花って小さいじゃない? 熱帯植物と同じくらいパワーのあるもの何かな、ってなって、思ったのが『蓮だ』って。それから蓮の絵を描くようになるんです。蓮だけ描いて15年」
現在、金谷さんは秋田に帰って、蓮の画家として海外でも知られている存在だ。
パンクからロータス。金谷真の創作は今なお続いている。
(つづく)