知識をアウトプットするということは、人に教える、伝えることとは限らない
語弊を恐れずに言えば、「動画勢はクソ」という議論。
何かを学習する際に、アウトプットすることが大切といって、調べた内容を多くの人の前で発表したり、人に教えたりするとよいということをたまに見る。
また、自分はアウトプットすることなしに、一人で部屋にこもって学力を伸ばしたという気持ちでいた。
そういった状況で、今日学生とはなしている中で、先生は学習している中でアウトプットをしていると言うことを指摘された。
どういうことかというと、例えば以下のような行動を考える。
・ある専門分野について、調べた内容を解説記事としてまとめる。
・プラモデルの作例を雑誌で見て、同じような方法でプラモデルを改造したり、塗装したりしてみる。
・CADソフトの使い方をYoutubeで見て、自分が作りたいものをモデリングする
・プログラミングの方法を学んで、自分がやりたい処理をコーディングする
・ゲームの攻略サイトや動画を見て、それを参考にした自分のプレイでクリアする
これらの中で、自分は1つめの例だけをアウトプットと考えていた。なぜなら、自分ではない他人に伝えるという行為が入るからである。
だが、よく考えると、他の例も自分が習得していた知識を使って、自分の行動として表現している。
もっと言うと、日本の教育はアウトプットすることが少ないと言うが、学習した内容を自分のものにして、テストで力試しをするということ自体がアウトプットである。テストを受けなければ知識の内化、定着は浅いものになる人も多いだろう。また、テストを受けなくても、見たことがない既存の知識を応用する問題(大学入試では二次試験)を初見でたくさん解くといったことも内化した知識のアウトプットになるだろう。
そんな感じで、今日は「内化した知識を外化する」というアウトプットの定義の際には、外化したものは、人の目に触れようが、人の目に触れまいが関係がないと言うことであることがわかった。芸術家が気に入らない作品を大量に作っては、他人に見せずに廃棄するということに似ている。