妥協と甘えのちがい
週1で必ず体調不良で休む社員がいたとき、「それはその人にとって妥協かもしれない」といったら、「いや甘えだ」という話になって、その場では妥協=甘えみたいな流れになったものの、よく考えてみると、妥協と甘えは違うのではないかと思った話。
妥協と甘えの定義
まず、妥協と甘えの定義をそれぞれ引っ張ってみる。
見てわかることは、妥協は双方向に折り合いがついていて、甘えは片側だけの満足で、相手方の状況を見ていないということである。
確かに打ち合わせ等では以下のように思う。
①甘えの例
「じゃあおねがいね!」と言って帰る上司は、部下からすれば、甘えている
②妥協の例
部下:すみませんがこれでいいですか?、上司:うーん、まあ良しとするか。。。というやり取りは妥協にみえる
しかしながら、①の例は、ひょっとしたら上司から見たら、「時間がないから合意を取る暇がない。命令するだけで何とかやってもらうことで妥協しよう」と思っているかもしれない。
もっといえば、②の例も上司のさらに上司からみると、何低レベルなもので落ち着いているんだ。甘えないでもっとやれ。と思われているかもしれない。
ここまでの検討と思考実験からわかることは、以下の2つである。
・甘えは片方向であり、妥協は双方向に合意が取れているもの。
・しかし人によって、それが甘えに分類されるか、妥協に分類されるかが違う。
妥協と甘えの解釈
つまり、"妥協"は当事者同士が合意した状態で、しかも各当事者が"妥協しても良い"という基準を上回る内容に達した状態。
甘えは当事者同士が合意していないこと、あるいはある当事者にとっては"妥協しても良い"という基準を下回り、不利益や不同意が発生している状態だと思う。
以上を考えると、「週1の体調不良で必ず休む社員」は、もしその行為が明確に合意がとれており、仕事の分散などで対応すること、毎度申し訳ないといってあとでリカバリーをすること等で部署内が合意していれば、それは妥協になりうる。一方で週一の体調不良によって仕事が滞り、周りが割を食っていて、しかもそれが合意されていないということなら、「甘え」と判断されるだろう。
自己の意思決定における妥協と甘え
しかし、周りから「甘え」と思われる当の本人はどうだろう。
実は自分の意思決定として、「妥協」か「甘え」かは、周りがどう判断するかにはよらないのではないか。
どういうことかというと、たとえば契約の形態として「週1日の休み」が保証されていたとする。そうすれば、契約形態上は週1日で休んでも、特に問題はないと解釈され、それは休む当人にとっては、休みを「妥協」と正当化するための第一の基準になる。もちろん仕事というのは週1で休むと滞るのが現実ということがあるかもしれないので、その場合、契約を満たすだけでは「妥協」の基準に達していない、迷惑をかけているから「甘え」だという見方もできる。そうすると、休むという連絡をするときに、甘えてるなあという気持ちが入るか、これは体調との勘案での妥協だと判断するかは、決断する個人だけで決めることができるものである。当事者間で決まるものではない。
以上、意思決定という観点でみれば、妥協になるか、甘えになるかは完全に自分の中の基準によるもので、他人が決定できるものではない。
妥協と甘えは非対称性がありうる
それでも「甘えている」と見える人はいるだろう。それはもちろんそうである。
人によって甘えか妥協かの基準は異なり、100人中99人が甘えだと思っても、決断する一人が妥協だと思えば、その一人にとっては妥協であり、99人が妥協と思うことでも、非常にストイックで自己目標が高い人にとっては甘えかもしれない。
ダメ押しで例を挙げれば、テストで全科目Aをとって親がほめても、いや全科目Sじゃないから失敗だ、甘えていたという学生もいるだろう。この場合、親は妥協でき、学生にとっては妥協できないという状況である。ほかにも講演会会場でマイクの調子が悪いとき、妥協して返金を求めないか、そんな不具合を出すスタッフは甘えているといって返金を求めるか、というのも甘えと妥協が非対称な例である。
以上、結論として、妥協はある基準を満たしているが、最善ではない状態、甘えは基準を満たしておらずゴメン!の気持ちが入る状態であり、それは人によって基準が違うので、上司が甘えだといっても、部下にとっては妥協であること、上司が妥協であるといっても、部下にとっては甘えであることなどは十分起こりうるということが分かった。
以上、いろいろ考えた結果だが、たぶん間違いないと思う。