断言する。カツカレーでは、コメダのカツカリーパンには勝てない。
まず誤解のないように言っておくが、私はパンよりもご飯の方が断然好きである。おかずをご飯に乗っけて、ガツガツ、ングング食べる幸せを知らない西洋人はかわいそうだと思う。トンカツについても同様だ。トンカツを使った料理の至高は、卵とじしたカツ丼であることはいうまでもない。
しかし、肉質と、とんかつ自体の出来が良すぎる場合には、ソースかつ定食の方がトンカツのポテンシャルを完全に引き出すことができるだろう。どちらの場合でも、トンカツ単体を食べるよりも、ご飯と一緒に食べることで、美味しさと満足感が格段にアップする。
一方で、カレーライスもまた国民食と言って差し支えないほどの代表的な日本食である。自他共に認める平均的日本人の典型である私が、カレーライスを愛してやまないことは言うまでもない。
しかし、昔から思っていたのだが、カツカレーに関しては、私は引っかかるところがあったというか、収まりの悪さのようなものを感じてきたようだ。むろん、カツも、カレーも、ライスも好きなのだから、カツカレーに対してマズいと思ったことはないのだが、何というか、カツカレーというのは必然性もなければ、発見性もない組み合わせ料理なのではないだろうか。
カレーの具として解釈するなら、カツは煮込み肉に負けるし、それどころかニンジンやジャガイモにも負ける気がする。逆に、カツでご飯を食べることを中心に置くなら、カレーはどちらかと言うと邪魔な感じがする。
そもそも、義務教育の時点で、洋の東西を問わず食事マナーの全てを叩き込まれている我々は、カレーライスを食べる際には、
「スプーンの中に小さなカレーライスを作りつつ、皿の上のカレーライスを縮小させていくように食べること。決して最後まで、ルウのみ、ライスのみの状態にしてはならない。皿からカレーライスが消えたとき、どれだけ皿がキレイになっているかでその人の品格が分かる」
という教えを、まるで国是のように大切にし、また盲信もしてきた。スプーンの上で「小さなカツカレー」など再現できないという事実は、この料理が最初から、最終的な敗北を運命づけられていたことを意味する。
そこで、コメダのカツカリーパンである。
カツカリーパンにおいては、上に述べたカツカレーの弱点がすべて克服されていることに気づくだろう。
カレーはカツのソースとして完璧に機能している。
それでいて、カツはパンの具として完全に機能している。
おまけに辛子マヨのまろやかさと、爽やかな千切りキャベツが良いアクセントとして機能している。
極め付けに、食べ始めから食べ終わりまで、パン、カツ、カレーの比率は完全に保たれている。
大東亜戦争で大和民族に地獄のような仕打ちをした鬼畜米英。非常にダイナミックで大雑把な味覚の持ち主で有名な鬼畜米英。その象徴であるパンによって、日本の食文化の精髄というべき「カレーライス」と「トンカツ」がアウフヘーベンされてしまったことの恥辱は実に耐え難いものだが、ましてやカレーの本家本元でありイギリスから搾取の限りを尽くされていたインド人の無念はいかばかりか。が、美味いから許す。
北朝鮮兵にカツカリーパンを食わせてあげれば、冗談抜きで泣いて喜び、簡単に懐柔できるのではないだろうか。NATOに加盟すればカツカリーパンが食えるとなれば、ロシア国民も奮起してプーチンを権力の座から引きずり下ろすのも可能だろう。
まあ、第三次世界大戦の様相を呈している中、こんなふうにふざけるのは趣味の良いことではないか。今のところ平和を享受して、朝コメダして、カツカリーパン食って、二度寝している身で偉そうなことは言えない。
しかしまあ、なんと世の中、争い事が多いことか。真剣な話し、本当にそんなに殺しあう必要があるのかどうか、落ち着いて話し合ってみてほしいとは思う。美味しいものを一緒に食べて、心を開いて話合える世界になるために、何かできることはないかしら、と思わないこともない私です。