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古代ヨルダン川文明の存在
エジプトとメソポタミアの間に隠れた古代文明が存在するのではないか
エジプトピラミッド建築の粗で、宰相のイムホテプは紀元前2660年頃首都メンフィスからメソポタミアシュメール初期王朝時代の主要都市国家ウル、ウルクなどに科学研修・技術取得の旅にでて、土木・建築や医学などの当時最先端レベルをエジプトにもたらし、ピラミッド築造や人体から外科的な損傷少なく内臓や脳などを取り出し、ミイラ制作を多数経験すること
メソポタミアの古代史
メソポタミアは古代エジプトより葦船、青銅器、医学や建築などの分野で先進していたようです。ピラミッド建設を初めて成功させたエジプトの宰相 イムホテプが紀元前2660年頃にメソポタミアから多くの先端技術や知識を持ち帰ったことが知られています。
交易に欠かせないメソポタミアの葦船は紀元前4000年頃から建造されており、ペルシャ湾のdirumun(バーレーン?ドバイの可能性?)などを介してインダス方面な
消える湖とシルクロード、死海
上の地図はローマ時代のローマ街道です。このローマ街道の地図をみれば、当時の気候でどの地域まで人が生活でき、どこまで街が拡がっていたか推測できます。黒海から北の地域は地表を氷が覆い、穀物の生産も出来ず、まだまだ寒冷な気候で人が集団で住む「街」ができていなかったのではないかと推測できます。
氷河の溶融で出来た湖世界的な巨大湖には、稀に地球の裂け目で水深が1500mにも及び、何百万年、何千万年以上(バ
氷河溶融とペトラ、アンマン、ジェラシュ、ボスラ、ダマスカス
ナバテア人と隊商ルートペトラは、紀元前2世紀前半から現在のイエメン、サウジアラビア、ヨルダンを介してシリアまでをの隊商ルートを制したナバテア人の首都で有名です。また地中海側のガザとを結ぶ交易拠点でもあります。
2006年アカバ港から旧ヨルダン川の川底を北上していけば、きっと川の東岸にペトラ方面への入り口があるはずだとの仮説のもとタクシーで行ったのですが、舗装道路から外れるには4WDの車でないと無
ディルムンdirumunはどこだ
ペルシャ湾の交易港メソポタミア文明とインダス文明の船での交易ルートに、ディルムンdirumunという港を介していたことがシュメールの楔形文字に記録されウルクの神殿跡から発見されている。
メソポタミアからは錫、毛織物などを輸出し、宝石、瑠璃などを輸入していたらしい。紀元前3000年代のことであるからメソポタミアの葦船にて陸地沿いに季節風を利用しながら往復していたのであろう。
一般的にディルムンは
Tel Akkoとハツォル(telhazor),ガラリア湖
紀元前1300年頃まで、ヨルダン川の南北と地中海側の港町との東西交易を一手に担ったであろう、ガラリア湖の北16kmヨルダン川西岸の河岸交易都市ハツォルについてはhttps://note.mu/bc10000/n/n2bd78ea34727にて書きました。では当時の地中海側の港町はどこかと探せば、tel akkoに違いないでしょう。今のAcerの街の一部であるこのtel akkoの丘状の遺跡について
もっとみるシュメール文明以降のメソポタミア
シュメール文化からアッカド帝国シュメール文化はメソポタミアの南部のウルクなどの多数の都市国家時代で、農業を中心としつつインダス文明との交易、円筒印章、銅にイラン高原の錫を加えてより強い青銅器などを発明し発展した。紀元前2330年頃上流のアッカドのサルゴン王が下流のシュメールを併合しメソポタミアの統一を成し遂げアッカド帝国を築き、孫のナラム・シン王はさらに王国を拡大し道路網を充実させた。なお紀元前2
もっとみるエルサレムとヨルダン川
カナン、エルサレムの歴史と旧約聖書
古代エジプトは研究者の厚みと碑文などの資料も多く研究が進んでいるが、カナン、ヨルダン川地域は古代エジプトとフェニキア、ギリシャ時代の間にあり資料が少なく歴史的な解明が進んでいない。そのなかでヨルダン川流域の古代史の足がかりになっているのが旧約聖書の記述である。モーゼのエジプト脱出からシナイ山での十戒、ヨルダン川東岸地域荒れ野での滞留、カナンの地への出発、などは
メギドとガデシュの戦いの進軍ルート
メギド(Megiddo)の戦いメギドはハイファ(Haifa)の南東方約25マイルに位置し、現在はもはや都市はなく小さな廃墟の丘が象徴するだけですが、かつては丘陵地域の平原でJezreel Valleyという地勢・交通上の要衝から、ハルマゲドンと言う言葉とともに、歴史上最も有名な戦場ゾーンであります。
メギドにはBC3000年からBC400年までに平和な時代はなかったといわれています。25回建設され
宰相イムホテプとメソポタミア、カナン地方
イムホテプはピラミッド建設を始めたジェセル王の宰相(さいしょう)、
階段ピラミッドを設計・築造した総責任者で、それまでのマスタバ墳墓から突然ピラミッオを築造し、ピラミッド建築の祖といわれる。
メソポタミアからの帰化人であるとの説も有力なイムホテプが、メソポタミア方面のチグリス・ユーフラテス川沿い都市を視察して、その築造技術や医学など最先進科学を学んでエジプトにもたらした。チグリス・ユーフラテス川
ナイル川流水量増減と古代エジプトの盛衰
流域の氷河の溶融に伴うナイル川の流水量の増減が古代エジプト文明の盛衰を規定したのではないかという疑問をそれなりに調べてきたのだが、どうも初期王朝時代のバダリ文化からナカダ文化への移行を、農業から海外交易の萌芽と強く意識しすぎて、パピルス船さえあるか無いかの時代に、キナから紅海への東部砂漠に船旅ルートを創作してしまったようだ。
何もバダリが消滅してナカダ文化になったのではなく、ナイル川下流の両岸に
メソポタミアの神話とナイル川大氾濫の終焉
メソポタミア文明のシュメール神話にエリドウやシュルッパクなどの下流5都市が冠水し、やがて衰退してしまう物語があるそうですが、考古学的調査で紀元前2900年から紀元前2750年にこれらの都市が大洪水で壊滅した時期と符合するらしいのです。
少し強引かもしれませんが、クフ王などの3大ピラミッドができたのが紀元前2500年頃で、その時代がナイル川水面が最高位から下り坂の時代だとすれば250年以上も違いが