図書館の値打ちが本の貸出冊数や入館者数で決まるのはトンデモナイはなしなのか?
先日、読みたいと思っていた本が、ちょうど名谷図書館にあり行ってきました。
名谷図書館は昨年オープンした駅前にあるデパートの4階にある。外装はガラス張り、木を多様した内装でいわゆる「カフェのような図書館」だと思いました。
置かれている本は、開館と同時に収集したであろう、新刊がほとんどを占めている。まあ書籍数は少ないのか、本棚はガラガラであるが、「仕事の悩み」「介護の悩み」「子どもの悩み」と身近なテーマ別に本が集められていたのも印象的であった。
学習スペースも充実しており、靴を脱いで座れる子どものコーナーも充実している。沿線に住んでいたら通いたくなる。そんな場所でした。
そんな中、「図書館の値打ちが本の貸し出し冊数とか入館者数で決まる」のはトンデモナイというまとめを見て、新しい本を集め、駅チカにつくり、おしゃれな雰囲気を作って人を集めようとしている。正に名谷図書館のことを言っていると思いました。
Twitterにも書きましたが、僕の考える図書館の存在する理由は大きく2つあると思っています。
一つは、図書館法に書かれている、図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資することを目的とする施設。つまり古い本・書店に置かれなくなった本などをたくさん大事に集めて整理して貸し出す施設ということです。
もう一つが、市民が気軽に本に触れ、読書人口を増やし、読書によって知見を広めるための公共の教育施設だと思います。市民が気軽に本に触れるために、「今月のおすすめ図書」や「おすすめ作家」の紹介などの棚を作ってあったり、大きいものだとツタヤ図書館やスタバ図書館、有名な建築家による図書館もそのための工夫だと思っています。
ネットゲームの世界などで耳にする「コア層」と「ライト層」の対立の話があります。
コア層はその名の通り、熱狂的なファンで、時間もお金もつぎ込んでいます。そして一部のコア層は自分よりもお金も時間もかけていないライト層に対して、マウントをとったり「にわか」扱いをすることで、ライト層の人が離れる、もしくは新しくライト層になる人が減り、結果的にそのゲーム自体廃れてしまうということです。
別の例を出してみましょう。
日本では野球はオリンピックやWBCなどで優勝するほど強いスポーツです。ただそれは二十数人強い代表選手が居るからではなく、社会人野球・草野球・中学・高校の部活、少年野球と競技人口の多さ(ライト層の多さ)があるからできているんだと思います。
インターネットで何でも検索できる(と思っている人が多い)今の時代、図書館もこの「ライト層」を増やしていく必用があると僕は思います。「ライト層」を増やさないとどうなるか。必用な情報は全部インターネットにあるから図書館は税金の無駄遣いだという、「図書館不要論」を出してくるでしょう。
僕の住んでいる神戸市には大小12の図書館があります。駅チカにある小さい図書館は、いっぱいの人に来てもらい、新しい本を集め、本を読む人口を増やす。中央図書館では、図書・資料を数多く収集してその教養、調査研究に寄与するこういった形をとっているのが神戸市の図書館がとっている形だと思います。
僕は、「本の貸し出し冊数とか入館者数」に重点を置く図書館と、「数多くの図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存する」に重点を置く図書館の両方を組み合わせることが、図書館の価値を高めるものだとおもっています。