わたしについて(高校卒業まで編)
これ、一番初めに書き始めるべきだったのかもしれない、でもまあいいや。
とにかく、バーバラ佐藤、私についての話。自己紹介です。
本名はバーバラでも佐藤でもなんでもありません、何となく文章を書きたいなと思ったときに降ってきたお名前。いうなれば神様が私にくれた第二の名前です、何となく気に入っている。
さて、自己紹介▼。ちなみに今マフィンが焼きあがるのを待ちながら書いています。お菓子作りや料理って無心になれるので嫌いではないです。ただお菓子作りって分量やらを量るのがめんどくさいですよね、こんな感じの人でなしです。
年齢は非公開、なんとなく。ちなみに平成産まれです。誕生日は5月30日のふたご座、双子の姉として兵庫県に生れ落ちました。幼い頃のトンチキエピソード、それはもう頭を抱えるくらい沢山あるのだけれど思い出すと恥ずかしいし大体悲しい思い出のほうが記憶には残りやすいっぽいのでまた書きたいと思います。
兄弟は双子の妹のみ、俗にいうふたりっ子です。幼い頃から常に友達がいる感じ、とても彼女には救われてきました。なぜなら生粋のコミュ障だったので小学校に入るまで自分でお友達を作れたことがありませんでした、すべて妹伝いのお友達、今思えば恐ろしいことです。
両親が共働きであったので保育所へ入り、お友達と遊び散々怪我をしながら社会性を学んで小学校へ、同じ苗字がクラスに2人いる事、また私たちは一卵性で顔がそっくりだったので先生も意味が分からんと困るのでクラスがわかれました。困ったことになったぞ、と小学校の四角い机の前で真っ青になったのを覚えています。案の定友達が出来ず、休み時間や昼休みに妹のところへ行けども向こうは向こうで新しいお友達が出来ていたのでそうそううまくいきませんでした。なので自由帳に絵を描いたり図書館へ行ったり、本を読んだりして過ごしていた記憶があります、今思えばなんて暗い子供だったんだろう。
絵を描いていた事が功を奏し、自由帳をみて話しかけてくれた子と少し仲良くなり、少しずつ友達が増えました。小学校1年生の頃の先生が作文を書かせることが好きで文章を書くことを好きになったきっかけはそれだったのかもしれません。幼い頃から読んでいた絵本に加えて本を読むことが楽しくて仕方なかった私にとって、文章を書くことはとても面白くて毎週提出しなければならなかった日記の宿題を純粋に書いて楽しんでいました。先生がくれる返事やハンコが嬉しくて一年で10冊くらい書いた気がする。先生仕事大変だっただろうな。
放課後は妹と一緒に学童保育へ、そこでも本とお絵かきばかり、あとは動物が好きだったので学習園のうさぎやにわとりにその辺でちぎった草をあげてなけなしの承認欲求を満たしていました。
高学年になってからは幼い頃から続けていたエレクトーンに加え、公文式とお習字教室に通いました。残念ながら字は汚いままです。勉強が難しくなったので塾にも生き始めた記憶があります、今思えば学校終わりもサラリーマンみたいなスケジュールだったな。
小学5年生の時一度学級崩壊が起きたけれどそれ以外はとっても平和で素敵な小学校生活でした。先生ってすごいな、絶対なりたくないや。成績は全体的に並み、国語と美術と音楽だけは常に大変よくできましたの丸がついていたのを覚えています。体育が壊滅的でした、今も変わりません。
そして中学校へ、制服を着てさらなる集団行動の社会へ突入。強制的に入らなくてはいけなかった吹奏楽部へ妹と一緒に入りました。
何となくクラリネットが吹きたかった、というかエレクトーン教室へ通っていたのに楽器なんて全然知らなくて、でも何となくトランペットはうるさそうで嫌だったしフルートも自分はそんなにかっこよくふける自信がなかった。クラリネットは壊れちゃったの歌で知っていたので何となくクラリネットがいいな、なんて舐めたことを思いながら希望の楽器を書く用紙を渡されてびっくり、第4希望まであるじゃん。
1番目はとりあえずクラリネット、2番目は叩きゃ何とかなりそうだからパーカッション、さて、第3希望はどうしよう。そうなったときにとんでもない手段を選んだ、目を閉じて楽器一覧に手を置いて指が触れたところ、人差し指の先のやつ。それがコントラバスでした。なんだこれ。
まあいいや選ばれたし、と第3希望にコントラバスと記載して4はサックスにした。部活体験で構造がクラリネットと似てると知ったので。
そして楽器発表、結果私はコントラバスでした。なんだよそれ知ったこっちゃねえよ、(適当なことをした私が悪いんですが!)後から聞けばコントラバスを希望にかいた奴は私ともう1人、山本という女しかいなかったらしい、そらそうなるわ。コントラバスパートには先輩も1人もいなかったのでテューバを拭いていた先輩に教えを乞うことになった。ちなみに山本は入部2週間で部活をやめた。
そんな適当な出会いをしたコントラバスとその後5年、付き合うことになるとは夢にも思わなかった。初印象はでっかいカブトムシ!持てるかバカ!だったけど今では一番すきな楽器です。いつかまたどこかで弾きたいと思えるくらい。
関西地区は全国的にも吹奏楽の強豪校が多かったらしく血の涙を流した3年間、今思えば中3の夏までは本当に部活一色だった。最後のコンクールでダメ金だったからまあよかったんじゃない?
夏のコンクールが終わってからはひたすら受験勉強、めちゃくちゃストレスだったけど国語は日本語喋れるから出来るし英語も単語覚えりゃ何とかなるし理科も社会も覚えれば何とかなる話だったので何とかなった。(中1中2の成績表は今見ても悲惨だけれど3年生から大分ましになってた。勉強って大切ですね。)毎日毎日塾通い、別の意味でノイローゼになるかと思った半年でしたがなんとか志望校にも合格。ここで初めて妹と学校が別になりました。私はなぜか少し地区から離れた父の母校へ進学しました。
この高校が地獄だった。そこは学区内2位の偏差値というまあまあ賢い進学校であったものの2位ってひねくれものばっかり。超ひねくれてる、みんな人間性クズ。今思えば真正クズだわあの学校、なんてボロカス書いても悔やまないくらい大嫌いな高校でした。そんな中でも仲の良い友達を数人作ったものの本気の本気で学校が大嫌いでした。下手にずるがしこい私はそこで出席日数をぎりぎり保ちながら出なくてはいけない授業はとことんサボるという卑屈な手に出ました。そうなってくると自動的に成績はどんどこ落ち、さらに毎日が面白くなくなるという悪循環が爆誕、絵にかいたような負のスパイラルに巻き込まれながらも適当にオーケストラ部に入部し放課後だけは何となく楽しかったのを覚えています。
まともに聞いていた授業は現代文と古文と世界史日本史、あとは選択美術。たまに当てられる危険性があるのでちょこっと英語、あとは授業中寝るか呪いのお札を描きまくるというとんでもない毎日を送っていました。丁度そのころライヴハウスに行くことに覚え、費用を捻出するためにコンビニのバイトを始めました。(当たり前に進学校はアルバイト禁止でしたがそんなもの知ったこっちゃない)自給はなんと750円当時の兵庫県の最低賃金に毛が生えたような給料でよく働いてたわ。(ちなみに早朝勤務は800円でした)週4程度でバイトをしていたもののせいぜい5万行かない程度。足りるわけねえと春夏冬休みは短期バイトに明け暮れていました。春休みは甲子園で春の甲子園のビール販売のアルバイト、野球シーズンが始まれば阪神タイガースショップの売り子とビール販売、冬は年賀状の仕分けとおせちの製造。(これらは自給が良かった(年賀状は除外)、タイガースショップとかビール販売は自給換算で1500円+手当くらいもらっていた記憶がある)金の亡者だった。高校生だったのに本当に金の亡者だった。
そんな生活をしていたら入学して数か月後、父がぶっ倒れた。ざっくり書くと過労でぶっ倒れて頚椎をやられて後遺症が残った。この後遺症がこれまた複雑で私の人格形成に多大なるゆがみを与えた。
半年ほど入院をし、家に帰ってきた父はほとんど2重人格に近いような状態に陥っていた、人格が切り替わるのは疼痛が出たとき。普段の優しい父からは想像もできないくらいに悲しみ、悩み、その果てに怒る。高校生の私にはその切り替えがしばらく理解ができず、ひたすら混乱した。それでも神経に異常をきたしたままでも復職をし、私たちを育ててくれた父には感謝をしている、けれど人格が切り替わった時には本当についていけないのでそれから私は性善説を信じることが出来なくなった、それに加え自律神経がひどくおかしくなり、夜眠れない不眠とひたすら寝てしまう多眠を繰り返していた。夜中中呪いの様な文字や悪夢のような妄想が頭を埋め尽くして寝れない日もあれば、学校から帰宅してバタン、次の晩まで起きませんなどなど。その頃には授業中の爆睡なんて常習犯だったのですが本当に聞きたくて楽しみにしていた現代文の"人間失格"の授業を受けていた時に不意に寝落ちてしまい、気付けば昼休み、そんな事もあったりしてこれは流石にやばい、ともやもやし出す。え、自分こそ人間失格じゃない?と。
当時好きだったラジオを全く聞かなくなったことに加え、日常のあらゆることにも支障が出てきたもので母親が心配して一度病院に連れていかれたもののそこからどうしたのか正直覚えていない。明確な記憶はこの医者を絶対信じちゃいけないという変な固定観念だった。そんなこんなで毎日ヒーコラ言っていた高校生活、後半は自律神経のあれこれでもはや先生にもほとんど見放されていた気がする。(そんな中でもクラス担任でもなかったのになんだかんだで話を聞いてくれた現代文の岸本先生と古文の大道先生。本当にありがとうございました。名前ちゃんと覚えてなくてごめんなさい、多分2人とも合ってるおそらく。日本語をちゃんと教えて私に向き合ってくれた先生達がいたから私は今でも文章を書くことも読むことも大好きです。大道先生に暗唱させられた竹取物語は今でも覚えてます。別に根に持ってるとかそういうわけではなく。)気づいたら出席やばすぎてオーケストラ部はクビになってました。コンバス私しかいなかったのにごめんな。(高1の時の合宿、山の中でコンバス弾いてたら蛇が寄ってきて滅茶苦茶面白かった。なんだこの記憶。)
そんな中でも大好きだった音楽、KAT-TUNと洋楽、あとビジュアル系。漫画と読書、エンタメがなければ多分何の楽しみも未練もなく死んでたと思う。エンタメは当たり前に身の回りにあったけれど、それがとてもとても私を助けてくれていた。何の気なしに勝手に好きになって、それが自分を生かしてくれていた。来週のジャンプが読みたいから、来週ライヴに行きたいから、数か月先にKAT-TUNがCDを発売するから、そんな理由で生きていました。大人になった今もそんな感じです。
そして高校2年生の後半だったかいつだったか、オーストラリアの姉妹校にぶっ飛ばされました。今思えば前年親が留学生を受け入れて一緒に学校に通っていたのに加えてあまりの素行の悪さが理由だったんだな、察したわ。
高1の頃にうちに来ていた千代子ちゃん(様子がおかしいぞ)はMarilyn Mansonが好き、と書いていた私のプロフィールを見て我が家を留学先に選んだバチバチの日系ハーフでした。おかげさまで数か月、異国の地で白米を食い、学校以外ではバチバチに日本語を話し、暇さえあれば千代子ちゃんとホラー映画を観るという怠惰な留学生活を送りました。何だったんだろう、とっても楽しかったけれど。(バイト先に留学するから休みをくれというのが一番言いづらかった記憶)彼女とは今もフェイスブックで仲良くしています。
留学を終えてからも素行は一向に良くならず、大嫌いだった担任の体育教師と大喧嘩をしたのを覚えています。(絶対にお前の内申書だけは書きたくない、と。今思えばパワハラかよ。言わせた私も悪いですが。)
ただ、夏休み前に大学を決めました。絵が描ければ入れる芸大に。(この時本当にお勉強は素寒貧でした。当時のノート、マジで意味の分からない呪いのお札と魔女になるための方法しか書かれていない。ソースは謎。)建前上文章だけはよく書けたので推薦入試の為の作文と入試の為の資料を持って職員室に直談判をしに行きました。私の味方である岸本先生がいる時間を見計らって。)案の定大喧嘩、私は悪魔に取りつかれたようにキレ散らかし、担任の先生は呆れ果て、計画通り岸本先生が助けてくれたことで書類と推薦文を書いてもらえることになりました。いえーい。(今思えばマジでくそ)
ガバガバの学力テストをパス、そして推薦入試をすいすいっと通過した私はめでたく夏休み前に大学が決まりました。皮肉な話です。しかし出席日数がギリギリのギリ+成績が悪すぎたため夏休み前半はひたすら補習授業を受けていました。数学が本当に訳が分からなくて虫唾が走っていましたがその後の古典で救われていました。大道先生は私のくだらない話を散々聞いてくれて今でもありがとな!と思います、何の話したかすっかり忘れたけど。(補修が終わってからはガンガンダッシュしてバイトに行ってました。)はあはあへえへえほうほう、と残りカスのような高校生活、果たして自分がちゃんと学校に行っていたのか記憶がほとんどないレベルなのですが卒業できたもんでちゃんと行っていたんでしょう。ちなみに卒業してしばらくして届いた卒業アルバム、何を思ったか燃やしました。ひっどい話。
そしてこのくだらない話は大学編へ続きます。ざっくりかいた大好きなものの話、バイトの話、地味に面白いものがごろごろあるのでまた別に書き残せたらいいかなと思います。
沢山読んで下さり有難うございました。大学編へ続く▶(CVキートン山●田)
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