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#弓道

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弓道のこと全般、学んだこと、感じたこと、共感したいこと、共有したいこと
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2024年2月の記事一覧

#弓道015 鱸 重康

「弓道教本」第二巻の巻頭には、敬愛の念を込め、本文では言及されていない、四名の弓人が写真と供に紹介がされている。 鱸 重康(すずき しげやす) 1866年-1955年 小笠原流弓道最高の一張弓免許。昭和二年大日本武徳会弓道範士。 青年の頃日置流弓道を学び、明治二十四年小笠原流宗家小笠清務の門に入る。東京大学法科卒業後司法官として終始し、昭和四年大審院検事を最後に停年退官後、特に弓界の発展に尽力され、清寧館弓道名誉師範・日本弓道連盟顧問であった。範士・十段。 昭和三十年歿,

#弓道014 坂本 茂

「弓道教本」第二巻の巻頭には、敬愛の念を込め、本文では言及されていない、四名の弓人が写真と供に紹介がされている。 坂本 茂(さかもと しげる) 1844年-1936年 熊本における日置流道雪派十四代。大正十三年武德会弓道範士。 肥後藩士坂本廉助の長男。九歳にして同藩弓術師範十代田上武経に入門し、明治二十八年以後生駒師範の代理をつとめ、大正八年宇野茂部師範より印可相伝を受く。同十年宇野師範歿後十四代をつぎ大正・昭和の交熊本弓道界に重きをなし多くの門弟を指導された。昭和十一年

#弓道013 弓道人の日常の心掛け

鴨川乃武幸(範士十段 全日本弓道連盟会長などを歴任)が弓道誌の2000年9・10月号に寄稿した「弓道人の日常の心掛け」。 私も初段審査の前に先輩に印刷したものを頂きました。ただでさえハイコンテクストな弓道界隈においては、常識では割り切れない細かなマナーが沢山あるように思うので、そういったものを野暮と言わずに明文化したのは、とてもありがたいことだと思います。 なお、多数のwebサイトで同様の情報が掲載されているが、いずれも内容が若干異なり、私の手元にあるものも原書の写しではな

#弓道012 高木 棐

「弓道教本」第一巻には、射法選定委員として五先生の顔写真がある。 しかし、流派の個性を一切伏せている第一巻では、それら先生方の弓歴の情報すらないため一人ずつ紹介をする。 高木 棐(たかぎ たすく) 1893年-1964年 明治二十六年生。埼玉県南埼玉郡久喜町出身。洗石と号した。弓道範士・十段、昭和三十九年病歿、享年七十一。 大正元年以後第一高等学校並びに東京帝国大学医学部在学中、故本多利実翁につき尾州竹林派弓道を学び、大正六年翁の歿後嫡孫利時氏が宗家を継いで生弓会を起こす

#弓道011 神永 政吉

「弓道教本」第一巻には、射法選定委員として五先生の顔写真がある。 しかし、流派の個性を一切伏せている第一巻では、それら先生方の弓歴の情報すらないため一人ずつ紹介をする。 神永 政吉(かみなが まさきち) 1885年-1961年 明治十八年生。栃木県足利市出身。的宗と号した。弓道範士・十段、昭和三十六年病歿、享年七十六。明治三十八年頃より約三年間、宇都宮の星野忠徳氏につき日置流雪荷派の弓道を修め、のち本多利実翁に師事、ついで故阿波見鳳範士につき大射道教の修業をされた。 大正

#弓道010 浦上 栄

「弓道教本」第一巻には、射法選定委員として五先生の顔写真がある。 しかし、流派の個性を一切伏せている第一巻では、それら先生方の弓歴の情報すらないため一人ずつ紹介をする。 浦上 栄(うらがみ さかえ) 1882年-1971年 明治十五年生。兵庫県出身。採山と号す。昭和四十六年八月歿、享年九十。 十歳のとき先考直置氏に日置当流の指導を受け、明治四十五年師家たる岡山の故徳山勝弥太範士の免許を得、以来日置流弓道をもって一家をなし、大正元年には武徳会より精錬証を、同七年に弓道教士、

#弓道009 宇野 要三郎

「弓道教本」第一巻には、射法選定委員として五先生の顔写真がある。 しかし、流派の個性を一切伏せている第一巻では、それら先生方の弓歴の情報すらないため一人ずつ紹介をする。 宇野 要三郎(うの ようざぶろう) 1878年-1969年 明治十一年生、青森県南津軽郡六郷村出身。竹隠と号す。昭和四十四年三月歿、享年九十二。 京都帝国大学在学中はテニス・ボート・馬術等のスポーツマンとして活躍されたが、明治三十八年より大正三年まで判事として神戸裁判所に奉職中弓道に志し、紀州竹林派の岡内

#弓道008 千葉 胤次

「弓道教本」第一巻には、射法選定委員として五先生の顔写真がある。 しかし、流派の個性を一切伏せている第一巻では、それら先生方の弓歴の情報すらないため一人ずつ紹介をする。 千葉 胤次(ちば たねつぐ) 1894年-1959年 明治二十七年生、宮城県栗原郡高清水町出身、宏斎と号した。 弓道範士・十段、昭和三十四年病歿、享年六十五。 六才より柳生心眼流柔術を学び、十三才講道館に入門し、錦城中学・早稲田大学に在学中は柔道の逸材として聞え、講道館より六段を授与された。 弓道は九才に

#弓道007 射即人生

 No music,No life. ほどのポップなノリではない。 梅路見鸞、大平善蔵、阿波研造らが弓道の精神性を禅に重ね、その価値観のもとに作られた言葉だと思われる。おそらくは、般若心経の 色即是空 空即是色の韻を模したのであろう。 弓道教本では「改訂増補にあたって」の文書の一部として以下の記述がある。 また、「弓道の二つの面」の項目にも以下の記述がある。 文脈から察するに、現代弓道にておいては、射即人生とまで傾倒することはないにしても、弓道の精神性、すなわち人格を磨

#弓道005 三位一体

三位一体と言っても、”唯一の神の中に、三つの独立した「位格」があって互いに神の本質を共有している” というキリスト教の話ではない。 これを意識した可能性はあるが、弓道における三位一体とは、身・心・弓の三者が合一して一体となることである。 具体的には「身体の安定」「心気の安定」「弓技の安定」の一体である。 『弓道教本』では、その三位一体を実現するための指針として「礼記射義」と「射法訓」の古文献を引用し、その解釈を説明している。つまりは、最高目標である真善美と同じくらい、身・心

#弓道004 貫中久

現代弓道の最高目標が「真善美」であるのに対して、近世の射術思想では、その最高目標を「貫中久」としていた。実利の射である。 貫徹力のある強い矢を、的中させ、それを長久すること。 これは現代弓道であっても変わることない重要な思想である。 的中至上主義となることはよしとされないが「正射必中」の考えの元、中てることへの執着も軽んじていいわけではない。 それは「発して中らざる時は 則ち己に勝つ者を怨みず。反ってこれを己に求むるのみ」という『礼記射義』の内容にも通ずる。 最後まで読

#弓道003 真善美

弓道には「真善美」という思想がある。 「真」は、一射ごとに正しい射法を目指すこと「善」は平常心を保ち、礼節と慈しみの心を大切にすること「美」は、「真」の正しい射法と「善」の平常心が一体となったときに体現される、理想的な美しい弓を表すことを意味する。そして弓道は、この「真善美」を最高目標としている。 なお、「真善美」という言葉は、古代ギリシアのプラトンやカントの哲学が由来となった考え方で、人間が生きるうえでの普遍的で理想的価値をさす。理想の人格を追求する弓道の精神性に、ギリシ

#弓道002 射法訓

「射法訓」とは、弓道の技術的な指針で「礼記射義」と供に『弓道教本』の巻頭文として採用されている特別に重要な教えである。 これを説いたのは、吉見順正という江戸時代の弓の名手。「礼記射義」同様に、この短文に秘められた深遠な技術は計り知れず「射法訓」をより深く理解したいがために、弓を引いているのではないか、と考えさせられるほどである。 吉見順正が生きた時代は、すでに弓は戦争における主力の武器ではなく、戦争そのものも少なくなっていた。江戸幕府は三代将軍、徳川家光の時代である。 京

#弓道001 礼記射義

「礼記射義」とは、現代弓道の精神的な指針で「射法訓」と供に『弓道教本』の巻頭文として採用されている特別に重要な教えである。また、標語として道場に掲示したり、稽古前に唱和することもある。 「礼記(らいき)」とは、今から約2500年前に作られた、儒教の最も基本的な経典の一つで、中国の哲学者である孔子による教えである。全49篇で構成されており、その46番目の「射義」の抜粋が、弓道における「礼記射義」にあたる。他に有名なところでは31番の「中庸」がある。なお、「礼」は、儒教おいて理